個室にて

Ars Cruenta

「目分量」という技術

 料理があまり好きではない人が、レシピの「目分量」や「適量」に怒っている姿を目にする機会は割とあるのではないだろうか。実際自分が料理を始めたとき、「塩 適量」の表示にうろたえた覚えがある。よくよく考えればちょっと入れてみて足りなければまた入れたらいいだけの話なのだが、「小さじ1」とか書いてくれていたらなと思っていた。

 こういうレシピに具体的な数字・再現可能性を求める感覚は、科学の実験に似ているかもしれない。ただ実際に料理を続けているうちに思うようになったのは、材料レベルでの再現可能性をどれだけ上げたところで、調理過程の再現可能性はそう簡単には確保できないということである。たとえば煮物を作るとして、材料がすべてg, mL単位で醤油や水、塩の量を指示していたとしても、使う鍋や微妙な火加減の違い、蓋をどれくらい開けるかなどで水分の蒸発量は変わってくる。統一したものを作るならば、ビーカーやフラスコで料理をしなくてはならなくなるだろうし、具体的な数字を示されることはしばしば、計測・秤量を惜しみなく行うことを意味する。なんでも量らないと気が済まないという人でも、カレーを作るときにじゃがいも300gを律儀に量る人はなかなかいないだろう。レシピが厳密な再現可能性ではなく美味しくできあがることのために存在する以上、どこかで標準を作れない「目分量」の余地は出てくるということなのではないか。実際、少し煮詰めすぎたりするなら、適量の塩が0のことだってあるのだ。

 ただし、適量をこのような意味で捉えられるのは、今自分の前にある鍋がおいしいかどうかを判断できるかにかかってくる。そう考えると目分量というのは、自分が考えている味と目の前にある味を一致させる技術のようなものだと捉えていいのかもしれない。さらにいえば、何度も大匙1をはかるなかで、だんだん適当に入れて「適量」を入れられるようになる。秤量の手間がさらに減るのだ。「適当でいいんやで」と言って醤油やみりんをどさどさ入れて料理を作る母ちゃんの姿をときどきテレビで見るのだが、彼らはまさにこのような技術を身に着けてきた人なのだろう。