個室にて

Ars Cruenta

「ヤクザの未来」

※この記事には「龍が如く8」のネタバレが含まれます。

 

 「龍が如く7外伝」で、ヤクザの夢を語る獅子堂に桐生は、ヤクザの夢なんてものは日々を一生懸命に生きる(普通の)人たちからすればゴミのようなものだと一蹴する。外伝をプレイしているときには桐生がなぜこんな言い回しをしたのかよく分からなかったのだが、まさかこの発言がそのまま8のキーワードになって来るとは。ネレ島というブラックボックスを用いてパレカナは世界の核廃棄物という厄介なゴミを、海老名はヤクザという社会のゴミを処分しようとする――この「ゴミ処理」が8のストーリーラインを構成している。

 海老名は最初、ヤクザの「社会復帰」を口実に極道組織の再編に乗り出す敏腕幹部として登場する。しかし彼の本当のねらいは、自分とその母親をろくでもない目に遭わせた父・荒川真澄とヤクザたちへの復讐にあった。海老名は再就職先を担保すると言って元極道たちを招集し、表向きは彼らをネレ島の作業員として働かせるふりをしつつ、憎しみの対象として処分するつもりでいた。海老名の目的を知った二人の主人公は、それぞれハワイと日本で最後の戦いに向かう。

 最後の戦いの前、桐生は春日に自分が「ヤクザの過去」を引き受け、春日に「ヤクザの未来」を託す。この言葉だけではプレイヤーは、ヤクザの過去や未来が何を指しているのかよく分からないだろう。しかし最後までプレイをしてみると、桐生は海老名にヤクザがやってきたこと(過去)を謝罪する。そして海老名に、ヤクザたちを殺さないように懇願する。そして春日はネレ島に侵入しネレ島で起こっていることを暴露することで、結果的にヤクザたちがネレ島で殺されないようにする(未来)。ヤクザの未来とは、組の存続や看板の問題ではなく、個々人の元極道たちが死なずに生き続けることを意味していたように思う。

 では、これまでろくでもないことをしてきた極道は恨まれて当然なのに、どうして生きなくてはならないのか。桐生は海老名に、極道モノが生き続けなくてはならない理由を「償い」に求める。極道が他人にやってきたことはどれほど恨まれても仕方がない。しかし極道はそれに対し償いができる。償いをするためには生きていることが条件となる。だから灰色の道を歩き続けるためにも殺されずに生きなくてはならない。決死の戦いの後、桐生は滔々と以上のようなことを述べて、海老名と向かい合う。

 海老名は結局、桐生が倒れてしまうことでそれ以上言い返すことなく物語から立ち去ってしまう。しかし、プレイヤーとして、桐生のこのパワープレイはやはりちょっと疑問が残るのではないだろうか。そもそも海老名の怒りの原点は、ヤクザたちが償いをしてこなかったことにあるのではないか。ヤクザに話を限定しなくても、自分がやったことの責任も取らない人間に殺意に近い怒りを覚えて、「こいつらに償いをさせるために生かす必要がある」と言われてどれだけの人が納得できるのだろうか。海老名の言うとおり、「ゴミはゴミとして粛々と処分される」ことを望む人は多いだろうし、本人に償いの意志がないと判断されるがゆえに刑法による処罰を求める人も多いだろう。

 桐生の言う「ヤクザの未来」が本当に見えてくるのは、灰色の道を歩むべき個々人が桐生のように真っ当に灰色の道を見据えるときでしかない。そのときまで「償い」を待つ人は待ち続けなくてはならないのだろうか。それとも桐生のようにすべてを背負い込んで涙を流して謝ってくれる人がいれば、償いを待つ人は少しでも救われるのだろうか。物語の最後、桐生は癌の治療のために診察室を訪れる。彼が生きることで、海老名は救われるのだろうか。もしそうだとして、彼は、これからどう生きるのだろうか。ヤクザの未来を肯定的に描き出そうとする本作の答え方は、悪党溢れる実世界を生きていくうえで、これからじっくり検討されなくてはならないだろう。