個室にて

Ars Cruenta

「みんな違って、どうでもいい」

 地元に長くいると、どうしてもついつい通ってしまうお店というのができてくる。我が家はあまり一人で外食をすることがないので、友達と会ったり会社の人と会ったりするときに、よくとある居酒屋に行く。洋風の色々なものを置いていながら、大都市にある「バル」とか「洋風居酒屋」ほど肩ひじ張らない、いわゆる「二軒目」のお店だ。先日数少ない知り合いとそこで飲んでいるときに、その人がそのお店を評価するために口にしたのが、タイトルの「みんな違って、どうでもいい」なのだ。考えてみるとなかなか含みのある言葉なので、今日はこの言葉の意図を私なりにパラフレーズして書き綴ってみたい。ただはじめに断っておくと、「どうでもいい」と言えば時に「価値がなくてとるに足らない」という意味で使われることがある。しかしこの場合の「どうでもいい」はそのような意味で用いられているわけではない。むしろ価値中立的に、「どうあっても構わない」くらいの意味で使われている。

 その居酒屋ではいつも、他の多くの居酒屋と同じようにそれぞれのテーブルがそれぞれの話題で盛り上がっている。突然常連がギターを弾いて歌いだしたかと思えばカウンター席で山手線ゲームが始まり、別の日には野球の結果が気になる客はテレビのチャンネルを変えてもらって結果を見届ける、トークも酔っぱらいが蟻の全重量と人間の全重量どちらが重いかを延々話し合っていたり、私のテーブルでは「ピピンには大中小いるんだよ」(世界史の話)みたいなことで笑ってみたり、まるで統一感がない。

 ところで「みんな違って、みんないい」という言葉がある。この言葉は多様性をもっと肯定しようという意図で用いられるのだが、よくよく考えるとちょっと変な言葉だ。なぜならこの居酒屋で今この言葉を発しようとすれば、それぞれのテーブルの話題について「あなたたちのその話もグッド!」と「あなたたちは高く評価されていますよ」と思わなくてはならない。でも居酒屋の一人間として、私はそもそも人さまがしている話を評価づける立場になんてないのだ。多様性というのは、違いを確認・肯定されて広まっていくものではなく、(少なくともこの場では)スタート地点であり、自分が入った居酒屋でだれが何の話をしていようと、興味をそそられたり逆に迷惑に感じたりすることさえなければ「どうでもいい」。ギターが響き、手拍子が起こり、野球の中継が流れ、酔っぱらいが会計でもめている。みんな違うことを物理的にはまざまざと見せられつつも、それを受け入れるかどうかを強制されることもない心地よさ、それぞれのテーブルに統一性はなくとも店全体としてはひとつ空間(店の味、といってもいいだろうか)が出来上がっている感じが、「みんな違って、どうでもいい」の意図するところなのだと思う。

 そういえば唐突だが、民俗学者宮本常一の遺著に、昔から日本の民衆は物見高いという話が出てくる。民衆は公家の儀式・お祭りなどにも忍び込んで見物をする、だけど公家の有職故実と自分の生活は別物だと意識して、自分はトラブルに見舞われないようにしっかり距離はとっておく。この物見高さは居酒屋の一隅にも残っているのだ。「みんな違って、どうでもいい」空間の中で、不意に誰かの話が耳に入ってきてクスリと来る。クスリときたからといって、別に知らない人と話に混じるでもなく、かといって興味があれば耳をそばだてる。私たちのどうでもいい話も、ふと誰かにクスリと笑われているだろうか。