個室にて

Ars Cruenta

コピーは右クリックで

 ここ最近、ネットニュースでよく「メンパ」という言葉を目にするようになった。「メンマ?」と思っていた私も「コスパ」や「タイパ」と並べられるとなんとなく分かって、メンタルパフォーマンスということらしい。

 最初このことが分かったところで、正直意味が分からなかった。というのも「コスパ」は「コスト」に対する「パフォーマンス」を意味する。たとえば修繕費などを度外視するなら、同じ役割(パフォーマンス)をする機材が200万円で手に入るよりは100万円で手に入るほうがよい。「タイパ」も同じ理屈で分かる。たとえば一つの報告書を読むにせよ、分かりやすく書いているのならストンと腑に落ちて分かるけど、馬鹿みたいにとっちらかった報告書なら同じことを把握するのにも時間がかかってしまう。これもやはり「タイム(時間)」に対するパフォーマンスが問題となっている。

 しかし「メンパ」となると、同じように考えてもよく分からない。「メンタル」に対するパフォーマンスの比率と言われても、そもそもメンタル自体が、コストやタイムのように量化できるのかという問題が生じる。たとえば私はちょっとしたことで不機嫌になったり、ご機嫌になったりする。いったいどういうことなのだろう。

 テレビのとある番組だと、こうしたメンパは、コスパやタイパを追い求めようとして疲れてしまう人がメンタルの安寧を求め、メンタルについて合理的な選択をすることを表すことなのだと解説していた。(正直この説明自体、広義で捉えたコスパやタイパとメンパが密接に関係しうることを検討していない結果だと思うのだけど、まあそれは置いとこう。)この解説といっしょに番組では「好みの食べ物を弁当にして送ってくれるサービス」だの「AIが好みのものを序列してくれるサービス」だのを挙げていてどこか薄ら寒い気持ちになったのだが、そういえばよくよく考えると私にも「メンパ」とやらに関わる行動はあるかもしれない。

 それは、昔からの癖である。文章やスライドをコピペしようとするとき、私はコピーのときは右クリックで「コピー」をクリックし、貼り付けの際はCtrl+Vで貼り付ける。もちろん、コピーもCtrl+Cで出来ることは知っているのだけれども、どういうわけかコピーは右クリックでやってきた。あまり深く思わずこの癖を続けてもう15年近くになるのだが、最近転職をして「急いで仕事をしよう」と意識的にCtrl+Cを使ったとき、何となく自分の癖の理由が分かったような気がした。

 確かにコスパやタイパを意識するならば、Ctrl+Cを押してそのままVを押した方が圧倒的に効率は良い。しかし、効率が良すぎるのだ。コピーからペーストまで一秒もかからない状況だと、ひと心地つくどころか、何かを考えるような間さえない。そんなことを繰り返しやっていると、文字通り息が詰まっていく感じがして、私は15分足らずでいつもの癖に戻っていた。知らず知らずのうちに私は、自分が無理なく精神を遊ばせておくゆとりを作業のなかで確保していたのかもしれない。そう考えると、「メンパ」という言葉にも少しは近づくことができるだろうか・・・。

コトハジメ

 どんなことにも、「初めて」というものがある。私たちの何気ない「歩く」という動作は、遡れば這いつくばっていた赤ん坊が立ち上がり初めて歩き始めたという起源があるし、今自分がやっている仕事というのも、契約書にサインをして初々しい気持ちで「よろしゅうお願いいたします」などと挨拶をした始まりがある。年をとってくるとついついこれまでの経験の蓄積に頼りがちで「初めて」を避けたくなる時もあるものだが、それでもふとしたときに「新しい趣味」とか「たまには資格の勉強しようかな」と、新しい「初めて」を求めたくなる時もある。ただ、赤ん坊が「初めて」に囲まれて生きているのに対し、これまでの経験に頼りきりだと「どう『初めて』いけばいいのだろう」なんて思うこともあり、何となく私は、自分が初めて料理をしたときのことを想いだした。

 私が本当に初めて料理をしたのがいつかは覚えていないが、母が持っていた「はなまるマーケット」(懐かしい!)のレシピ本に載っていたネギサラダを作りたくて、母にネギをねだったことを覚えている。小学2~3年くらいだったろうか。レシピを読むと言っても片手間で、辛みを一切抜かず火も一切使わず「調理」されたネギの鮮烈な辛みが印象的で、今でも覚えている。あと高学年の時に作ったのが「餅入りハンバーグ」。餅をスライサーでひたすらスライスしたものをハンバーグの種に入れるというもので、自分で思いついたと記憶しているが、もしかするとテレビか何かで見たのかもしれない(アイディアとしてはとても良い)。此方は美味しかった覚えがあるし、親の常として子供の作ったものを悪くは言わないものの、なにせ餅をひたすらスライスする工程がかなりしんどかったことを覚えている。道楽というか、思い付きで料理をしたら、何かはできたけど小さな痛みを伴って嫌になったというのが、子ども時代の料理だった。

 私にとって良くも悪くもその後も料理と縁がつながったのは、料理という趣味がそもそも「人間は何かを食べて生きていかねばならない」という家事の一環であったことである。高校生まで母の料理をぬくぬくと食べていたのだが、諸事情があってそうはいかなくなってしまい、総菜や弁当を食べる日が続いた結果、家族みんなが体調を崩してしまった。そこで一念発起し再び台所に立つことになったのだが、ネギサラダや餅入りハンバーグを思いつきで作ったことしかない人間にできることなどたかが知れていて、そのうち平野レミさんの料理本なんかを読んで食べたいものを模索するようになった。

 しかし、知識や知恵の全くない私のような人の考える「食べたいものを作る」というのは意外と贅沢だ。レシピの材料に「ミニトマト」とあれば「ミニトマトが必要なのだ!」と買いに行き、家にサバがあってもイワシを買いに行く始末。難儀だったのがスパイスで、今なら全部混合ハーブで済ませてしまうところを、「この料理はオレガノがいるらしい」とオレガノを買ったり、以下同様で、我が家の台所の一角にはいまだに使いきれていないハーブがたくさん眠っている。よく家族が許してくれたなとも思うのだが、こうして「レシピ通り作る」という体験を通して私は(少なくとも家庭で作るような)料理の基礎を身に着けたし、楽しく料理をすることができた。

 ずっと前に「目分量で料理ができるのは慣れた人だ」という話をブログで書いた気がするのだが、ここから10年ほど経って今の料理があるのだと思う。最近は6L出汁をとってどうのこうのなんてせず、出汁パックに頼った生活をしている。わざわざ遠方まで魚を買いに行くことは滅多になく、近くにある、しかし魚の良いスーパーを吟味して適当に調理する。もちろんレシピは調べるが、全部が全部レシピ通りじゃないといけないとは最早思っていない。こういう意味ではずっと家庭的で家事的な料理ができていると思うのだが、やはり趣味のひとつとして料理を楽しんでいるきらいがある。

 こうして考えていくと、そしてほかの趣味も同じように考えていいならば、(少なくとも収集を除く)ある種の趣味というのは「角がとれていく」ものなのだと思う。よく「形から入る人」なんて釣りやゴルフの道具をそろえる人を揶揄する言葉があるが、そこそこの道具なら、形から入ってもいい。「好きなものを」という気持ちが前のめりになってもよい。当たり前のようだが、趣味のはじめは右も左も分からないのだ。右も左も分からないから、欲望を満たそうとして、その手段として適切そうなものを欲しがる。お金はかかるけど、そもそも趣味とはそういうものなのだと思う。そのうえで、少しずつその趣味を自分の生活に合わせていく知識と知恵を身に着けて、分相応で持続可能な趣味を自ら作っていくのではないか。

 とある人にオシャレを教えてもらって、思えば今私は同じような仕方で趣味の角をとっているのかもしれない。そんなことを想いつつ、そろそろ夜ご飯の仕込みでもしよう。

鴨つけそばとステッキ

 しばらく前にも書いた気がするのだが、私と付き合いの長い人はおそらく、私が相当なのんびり屋さんであることをよく知っている。どれくらいのんびり屋さんかと言うと、大学時代、お昼休みになって構内を歩き回りながら今日のお昼は何がいいだろうと考え始め、結局昼食にありつくのが夕方になることが度々あったくらい、のんびり屋さんなのである。仕事もせず、かといって趣味に没頭するでもなくお散歩をしながらボーっとしていると、時々変な問題を考え始めることがある。今日はそんな、いつも以上にどうでもいい話をしてみたい。ただしそこそこ不謹慎。

 確か数年前のある日、急に鴨つけそばが食べたくなった。鴨自体が大好物だし、美味しい蕎麦にも目がない。美味しい蕎麦は何もつけなくても、つけたとしてもお塩で十分美味しいのだが、好きなもの+好きなもの=大好き、という子供じみた発想で、いつしか鴨つけそばが無性に食べたくなる時が出てくるようになった。しかし困ったことに、家の近所には鴨を売っているようなお店がそもそもないし、美味しいお蕎麦屋さんもない。さてどうしようか、どうしようもないなと悶々としているうちに、不意にこんなことを考えてしまった。

 ここに魔法のステッキがあるとする。魔法のステッキをえいやと人に向けて振ると、その人が自分の大好物になる。(のちに共産主義的テロルのディストピア世界のごとく、大好物にされた人間は文字通り戸籍や人々の記憶なども消される、という恐ろしい追加設定が付くようになる。)ただし魔法のステッキに登録できる大好物は一つだけで、最初に決めた一つ以外のものは登録できない。(あなたなら何を大好物にしますか? そしてあなたはどんなことがあればステッキを振りますか?)

 鴨つけそばから始まった話なのだから、当然私なら、鴨つけそばにするかな、と思った。公園で遊ぶ子供たちを見ながら、今度は「彼らにステッキを振ったら、小丼になるのだろうか」などと不謹慎極まりないことを考えていると、今度は「鴨つけそばなら何でもいいわけじゃないよな」などと量から質へおかしな方向に考えが進み始めた。心の綺麗な人は美味しい鴨つけそばになるのだろうか・・・しかし、そのような人を鴨つけそばにするなんてとんでもない。悪人なら鴨つけそばにしてよいのかはさておき、顔も見たくない奴が鴨つけそばになったからといって、それもちょっとな・・・。このほかにもくだらないことを考えているうちに、もしそんなステッキがあって私に鴨つけそばの禁断症状が出てきたら、私はその辺にいる知りもしない誰かにステッキを向けるかもしれないと思い至ったのだった。そんなステッキがなくて本当に良かった。

 ちなみに最近になってこの魔法のステッキのことを想いだしたとき、再びろくでもないことを考えてしまった。最近は自然災害が多かったせいか、この魔法のステッキはだいぶホラーな備蓄品になるのではないかと思いついたのだ。最初に思いついたのは、避難所で一人ずつ誰かが消えていく光景。誰も人が料理になったなんて思わない。お腹が空いた私は良心の呵責に苛まれながら、見知らぬ誰かに今日もステッキを振り向ける・・・。

 おやおや。しかしここでまた変な方向からブレーキがかかる。昔私が(心のなかで)登録した大好物は鴨つけそばなのだった。毎日鴨つけそばでも恐らく当分は飽きもしないだろうし、ご馳走であることに間違いない。ただ・・・焼いたネギだけではいくら何でも野菜不足になってしまわないだろうか。非常時に温かい食べ物にありつけるだけでもありがたいはずなのだが、一時気になると、無性に気になってきた。

 ・・・鴨鍋には〆のおそばはつきますか?

雨を感じる

 今年はどうも、雨が少ない様な気がする。降ったとしても土砂降りになることは少なくて、夏も秋もしとしとと霧雨のような小雨が降るか、中途半端なゲリラ雷雨があっという間に止んでしまうことが多かったように思う。

 職場の近くに大きな川が流れていて、仕事前にふらふらと河川敷を散歩する。大した雨が降らないから、小雨が降っていても傘さえ差さずにふらふら道を歩いていると、ふと不思議なことに気づいた。眼鏡も服も、そんなに濡れているような気がしないのに、川を見やると、ビックリするほどたくさんの雨水が水面に打ちつけていて、そこだけ切り取ってみると、まるで大層な大雨が降っているかのように見えるのだ。また、ほとんど降っていないかのように思えるときでも、ふと家の裏手から外に出てみると、夜降った雨の水たまりにたくさんの雨滴が打ちつけていることがある。物理的に考えれば、小雨とはいえ人間の身体にあたる水滴がこれだけたくさんあるのだから、単位面積あたりに降る雨の量というのはそこそこ多いのだろう。その雨水を水たまりや河川にうつせば、確かにそこそこの量が降っているように見えるのかもしれない。ただ感覚的には、身体に打ちつける雨水と目に見える雨滴の量のギャップが感じられて、どこか風流に感じるのだ。

 このギャップは、ちょうど傘が必要なくらい雨が降って来るとなくなってしまう。身体に打ちつける雨の量と、目に見える雨の量に違いを感じなくなっていくのだ。その代わりに今度は、身体を打ちつける雨を触覚で強く感じるようになる。雨が次第に強くなるにつれ、服もズボンもびちょびちょになり、何より汗のように冷たい雨滴が皮膚を滑り落ちるのを知覚するようになる。こうなると、私はいよいよ「降ってきたな」と感じる。もう川を見ても、もはや視覚で雨を感じられなくなるころには、川は濁流となってあの怖い色をしていることが多い。

 さらにその先になると、いよいよ触覚でも大雨を感じられなくなっていく。乾いた布地は、濡れてしまえばあとは濡れっぱなしで、雨が強まれば強まるほど、もう皮膚の表面の雨滴なんてどうでもよくなってしまう。この段階になると、一番雨を感じられるのは耳に変わっていく。あの大雨独特の圧迫感のある音こそが、私にとっては大雨のサインであり、「危険水域」を示す格好のサインとなっている。

 そういえば先日、青森の白神山地の近くで泊まった際、びっくりするような雷雨に見舞われた。宿の屋内にいたので全然濡れなかったし、深夜だったから表に出ることもしなかったのだが、つんざくような雷鳴が次から次に鳴り響き、風が雨を運ぶ音と、雨が束になってボトリと落ちる音が二、三時間は続いたように思う。雷の明るさしか見ていないし、雨に触れてもいないのに、この一、二年のなかで私は音を聞いて一番雨を感じていた。同じものが程度や質の違いで別の感覚で感じられるというのは、そんなに不思議な話ではないのかもしれないけれど、最近は雨が降るとふと、どの感覚で雨を感じようとしているかに注意を払っている自分がいることに気づく。

小ネタ

 世の中には、普段あまり気にしないでいても、よくよく考えると不思議なことがたくさんある。今朝、新しいデンタルフロスをあけることにした。そこには「初心者でも使いやすい」みたいなメッセージが書かれていて、となりには自動車でおなじみの初心者マークが付されていた。このフロスは何度か同じ物を買っていたのだが、歯茎をごしごししながら、ふと「初心者マークはおかしくないか?」と思ったのだった。

 というのも、「初心者マーク」をつける人は、いずれマークを外して並のドライバーになっていく。すると私はいずれ、並のフロス使いとなって、今使っているY字フロスではないフロスを使うようになっていくのかと思ったのだ。車の運転で不慣れな人は初心者マークをつけっぱなしにするのかもしれない。でも、私がこのY字を使い続けるのは単にそれが便利だからであって、ほかのフロスを使うのが怖いからではない。するといよいよこの初心者マークが不思議になってきて、最後は少し可笑しくなってしまった。

 似たようなギャップをつい最近経験した。スーパーの冷蔵コーナーに「野菜一日これ一本」という100mL紙パックくらいの製品が売っていた。そのあとに売り場をのんびり見ていると、今度はドリンクコーナーに先ほど見た「野菜一日これ一本」の800mL入りくらいのペット容器が売られていた。

 ご察しの良い方はもう私の言いたいことはお分かりの通りで、いくら製品名とはいえ、「これ一本で済む」を売りにしている割に、「一本」の基準が異なりすぎるのだ。実はこの商品を子供のころ飲んでいたときがあって、そこそこ美味しかった記憶はあるのだが、まさかペット容器の方は色が同じでも何倍も希釈されているのだろうか。人に勧めるときは「ペットより紙の方がお腹タプタプになりませんよ」などと言わなくてはならないのだろうか、などと、またくだらないことを考えてしまった。

 そういえば先日初めてお会いした御仁が公園のバーベキュー禁止について面白いことを仰っていた。火を使用してのバーベキューが禁じられている自治体はたくさんあるのだが、それなら携帯用の蓄電器からホットプレートに繋いで電気でやればいいじゃないかというのだ。そして実際、電気ならOKという自治体もあるのだそう。ごみ問題やにおいなどバーベキューを取り巻く問題はいろいろあるから一概には言えないけど、バーベキューにあまり関心のない私にとっては目からうろこで、「そこまでして」と思いつつ、人間なんでも考えるものだなあと面白く思った。

 結論も何もないのだが、こういう話を身の周りにしても、あまり面白がってくれないことが多い。能天気のように、こんな馬鹿らしい話を楽しめるのは一種の才能か、あるいはこんな馬鹿げたことを考え続けた結果身についた心の癖らしい。ただ、辛くて痛いより、楽しくて笑えることの方がより良いのではないだろうか。ちょっとした面白さを生活の中に見いだせるよう、これからも生きていきたい。それだけ。

お悔み

 自分もそこそこ良い年になったのだなと思う一つのきっかけとして、お世話になった人の訃報に出くわすということがちょくちょくある。私は人づきあいがあまり上手じゃなくて、しょっちゅう会う人の訃報に接することはほとんどない。むしろ「最後にお話したのは数年前かしら」というような人の訃報にふと接し、不思議な気持ちになることの方が多い。

 世話になった人が死んだのだから、普通は悲しく思う方が人間の心理としては当然だろう。ただ私の場合、その時点で哀しみを覚えることはほとんどない。「ああ、亡くならはったんや」という事実確認だけが先行して、どこか上の空になる。だって普段会っていないのだから、相手が死んだってダイレクトに「もうあの人に会えないのだ」とまで思えない。ただ訃報を聞かされてから毎日虫食いのように、ふとその人のことを思い出すたびに「ああ、もうあの人とお話することはできないのだ」とだんだん哀しく、そして辛くなっていく。

 こんなブログをしたためているのには訳があって、近日、中高とお世話になった先生の訃報に接し、それどころか追悼文を依頼されてしまった。ものすごく正直に言えば私はその先生のことがそんなに好きじゃなかったし、教える教科も好きじゃなかった。ただ、「亡くなった」と聞くと、不思議と色々な思い出が湧きだしてきて、良い思い出も悪い思い出も、率直に書いてやろうと思ったのだった。率直に書けば書くほど、いろんな思い出がまた蘇ってきて、死んだ後の相手が昔対面していた人よりリアルに感じられることさえあって、少し怖くなったことさえある。

 誰か私が滅多に会わない知り合いAさんがいたとして、Aさんの訃報に接しなかったら、私はAさんのことを思わないかもしれない。それなのにAさんの訃報に接すると、不思議とAさんのことを今更考えてしまう。後悔先に立たずというけれど、後悔しないとその人のことを思わない私は薄情なのだろうかと、最近度々思う。身体がボロボロの私が死んだって誰も何も思わないだろうとずっと思ってきたが、私が死んだら誰かが何かを、私のように思うのだろうか。もしそうだったら「そんな無駄なことやめとけ」とぜひ言いたいが、残念ながら死者の声は生者に届かないのが一般的らしい。

まどろみキッチン、風のキッチン

 普通のサラリーマンと違ってとにかくたくさんいろんな仕事をしていることもあって、起きる時間・寝る時間は日や曜日によってまちまちだ。6時に起きて仕事に出かけて昼過ぎに終わることもあれば、お昼に起きて夜まで働くこともある。ただどちらも共通項があって、とにかくどこかでご飯を作って食べないといけない。食べることが生きがいのような人間だからか、最近朝や夕方にちょっと変なご飯の作り方をするようになってきた。

 たとえば午前6時起床なら、簡単にパンを食べるとか、冷ごはんでお茶漬けというのが一番簡単に済むだろう。ところが最近、私は朝起きて眠いなか、いつの間にかもう少し手の込んだものを作っている。突如白だしを薄めて雑炊を作り始めたり、素麺を湯がいてチョジャン(韓国酢味噌)で和え始めたり、少し余裕のあるときだと、昨夜のお鍋を魔改造して親子丼を作ったりしているらしい。どうしてこう自分のことなのに突き放したような書き方をしているかというと、食べた記憶はあっても作った記憶がなくなっていることがしばしばあるのだ。

 おそらく起きたときには、何か食べたい味があるのだろう。その味をイメージして私はいつの間にかキッチンに立っている。そしてその味を作るために必要なものを知らず知らずご飯か素麺かで選んで、鍋を動かしているようだ。ただの卵かけご飯でも、写真を見返して記憶を思い出すと、タバスコと肉味噌を加えていたり、意外とやんちゃなことをしている。まどろみのなかいつの間にか作っている料理のことを揶揄して、「まどろみキッチン」と最近は呼んでいる。

 他方で、昼からの仕事では最近、休憩が夕方になることが多い。午後1時に昼食を食べて午後4時休憩だとすると、3時間しか空いていないので「ちょっとお腹は空くけどそこまで食べなくても」という中途半端な感じになってしまう。そこで最近は昼食を抜いて仕事前は果物などで済ませておいて、夕方に昼食を食べることが多くなっている。

 さすがに少しは働いた後の食事なので、まどろみキッチンのように記憶がとんでしまっているということはない。ただ、結構大忙しだ。勤怠を切ったらすぐに職場から家に帰って(走って3分!)、それまでに考えていた、主に丼ものを作る。ピリ辛親子丼とか、福井風醤油かつ丼とか、そういったものが作りやすい。休憩は1時間しかないので、休憩が始まってから風のように駆け回り、10分経過したくらいで食卓に着く。それを大急ぎで食べて、別の仕事の準備をして再び職場に戻る、そんなことをしたりしている。

 まどろみキッチンが本能に従った料理なら、この言わば「風のキッチン」はいかにうまく料理を作って食べるかという、知性を無駄に用いたゲームのような面白さがある。これだけ聞いてもらうと慌ただしいことこの上ないが、今のところ私は結構このゲームを面白がっている。なるべく手間をかけずに食べたいものを食べる、そして食べたらしっかり働く。意外とこれも、バランスがいい働き方なのかもしれない。

 朝も夕方も不思議なキッチンだが、もちろん、ときどき腰を落ち着けてゆっくり家にあるもので作り置きを作りたくなる時もある。あまり何も考えず、お酒を飲みながら適当にいろんな料理を作るとき、何となく豊かな気持ちになる。ああ、私は食べることも、食べるものを作ることも、好きなのだなと、どこか素直に思えるのだ。