自分で見返しても恐ろしくチープなタイトルをつけてしまった。ただ、実際にそうだと強く思わされる出来事がつい先日起こったので、今日はなんとなくそのことについて書き残しておきたい。
私の祖父母はもうすでに他界しているのだが、もう15年近くお世話になっているおばあさんがいる。最初は大学の課題のためにインタビューを引き受けていただいたのだが、それをきっかけに交流が芽生え、出汁の取り方を教わったり、果物を持って行ったり、あるいは彼女の出身地の味噌を頂いたりと、細々とした付き合いが続いていた。
とはいえ15年前の時点で相当なお年だったので、最近は身体もあまり言うことを聞かないらしく、ついには自力で立つこともできないようになってしまった。家族伝手に相当悪いらしいとは話に聞いていたのだが、折しも私自身が多忙で体調を崩しがちで、なかなか最近は会いに行けていなかった。それがある日、「もうもたないかもしれない」との知らせを受けて無理矢理会いに行ったのが二週間ほど前。あとから写真を見せてもらったのだが、この少し前まで顔面蒼白で、文字通りいつお迎えが来てもおかしくないほどだったらしい。
インターホンを鳴らしても出てくるはずもないので、そのまま玄関にあがって奥に行くと、けたたましいテレビの音がする。また相変わらず韓国ドラマを見ながらその人は寝そべっていた。ただ思ったよりずいぶん元気で、血色もよく、久々に話をしているうちに自分でベッドに座り、そのまま40分も50分もああでもないこうでもないと話を続けた。
話に聞くと、体調が悪かったことは事実らしい。どうも便通があまりよくなかったらしく、それが原因で食べるものも食べられず、ますます疲弊していたようだ。ところがお通じがマシになってから食欲が出たようで、(彼女の豪快な所なのだが)なんと御年およそ85で近くの中華料理店の焼きそばと焼き飯を食べたいと思ったという。もちろん一人前ずつペロリというわけではないだろうが、健康な大人でも躊躇しそうなわんぱくな組み合わせを死さえ予感されていた顔面蒼白の老体が求めたのだ。本人には相槌しか打たなかったものの、何となく私はそこに生きるパワーのようなものを感じずにはいられなかったのである。
思えば私もここ最近は体調を崩しやすく、分かりやすく風邪で寝込むというわけではないのだが、昼や夕方でもベッドで臥せって寝ている時間がだいぶ増えたような気がする。もうすぐ自分も死ねるんじゃないかと思うこともままある。ただ、一度起きだして溜まった仕事や家事をしていると、不意に何かが食べたくなる。今日はさっきまで死体のように眠っていたはずなのに、ネットで何かの拍子に「熱田神宮」という言葉を見て、妙にきしめんが食べたくなってしまった。もちろん食べたいものがすぐに食べられるとは限らないのだが、ありあわせのものでも自分の食欲に従ってご飯を作って食べると、それなりに身体も心も落ち着くような気がする。食べることは生きること。チープな言葉ではあるものの、チープであるがゆえにそこにはどこか否定しきれないような太いロジックの芯のようなものを感じることがある。