個室にて

Ars Cruenta

知識と相談のネットワーク

 全国に何店舗もある、とある小売でバイトとして働いている時、最初はとても不思議だったことがある。お世話になった社員さんが2年も経たず、場合によっては半年ほどで異動になってしまうことが繰り返され、店長でさえ数年のうちに別のお店の店長になってしまう。一番はじめは凄く非効率的だなと思ったのだが、たとえばずっと地域にいるとズブズブの関係になってしまうお客さんもいるかもしれない・・・つまり、お互い仲良くなりすぎて不適切な割引をきかせたり、不適切なおまけをあげてしまうようになったりするかもしれない。当時私は異動の決まった社員さんがそんなことを言っていたのを聞いて、「なるほど会社はそういうのを阻止しているんだ」と思い、何となく得心が言っていた。あるいはのちのち、社員をいろんなお店で働かせることによって、様々な地域で異なる風土のようなものになじませることで、ある種の経験を積ませることも目的なのかなと思っていた。もっとも、そうした異動の連続が嫌でやめていってしまった社員も知っているから、あまり良いことばかりを強調するのもできないのだが。

 しかしあるとき、職場でのワンシーンを見て、会社が意図しているのかどうかは分からないものの、この社員の異動には少なくとも別の意義が見出せるのではないかと思った。あるとき、業務の手続きでどうしてもよく分からないことが起こった。マニュアルをひっくり返してもよく分からず(それはそれでどうなんだと思うが)、社員に聞いても答えが分からない。そんなときに、社員が「どこそこの店長なら前にお世話になって、その業務にも慣れているから電話してみよう」と電話をかけてくれて、無事に解決した。そのときはよかったー、ありがとうーで終わったのだが、後になってよくよく考えてみると、この事例はなかなか面白い視点を提供してくれるように見える。

 一見すると何事もないトラブル解決のように見えるが、ここには「社員が一定範囲内を異動する」という前提があるからこそ成り立つロジックがある。まずはじめに、先ほど私が憶測として述べたように、社員は異動によってさまざまな環境に置かれ、その場その場の特殊な状況になじむようにスキルを身に着ける。次に、個々の社員は異動によって離合集散するものの、異動の範囲はある程度限られていて(たとえば自宅から通勤できない範囲に移動になることはまれだろう)、社員同士は「同じ店で働く」という経験を通じて一時的であれ関係を持つ。もしみんなが同じ経験を積んでそれを記憶していたら、同じ問題は原則誰もが可能的には解決できるはずだ。そして誰も、サポートセンターでも相手じゃない限り、見ず知らずの人にいきなり電話をかけて教えを乞おうとは思わないだろう。しかし、異なる経験、スキル、知識と「かつて一緒に働いた」という縁が結びつくとき、はじめて上のような「この人に聞いてみよう」という解決策が成り立つのではないか。この意味で、(本人がそれで幸せかどうかは別として)「異動」という仕組みは従業員間の知識を共有し相談を可能とするネットワークを駆動するための重要な役割を果たしているのではないかと思うのだ。

 ところで、このネットワークの末端には私のようなバイトも含まれうる。思い返してみれば、私はある方面のトラブル対処に多少長けていると思われたせいか、他店からまさにそのような電話を受けることが稀にではあったが、確かにあった。そのような電話の相手はかつて一緒に仕事をして他店に異動となった社員であったり、場合によっては上司の上司からの指示で全く知らない人から相談を受けることもあった。このようなネットワークは異動のみならず、バイトのような固定的な人員も含まれる、そう考えるとなかなかこうした相談のネットワークは現代の仕事上の人間関係を考えるうえでも面白い問題なのではないだろうか、と思ったりもする。

酔っぱらいを家まで届けた話

 ちょっと前のこと。以前訪れた立ち飲み屋に行ってみると、店主が温かく迎えてくれた。いわゆるL字型の角打ちで、酔鯨の秋上がりなどを頂いたのを覚えている。そうこうしていると角で飲んでいたおじさんが猫の話をしているのに気付き、席を変えて猫の話を色々としていた。まだ三杯目とのことだがだいぶ酔っているようで大丈夫かなと思っていたのだが、帰るとき店主が途中まで見送ると言っていると思えば帰ってきて、自転車に乗ろうとしてか、それとも自転車の重さを制御できなかったのか、転んだというのだ。

 だいぶ酔っていたのだが思わず走って駆け付けた。おじさんは意外と無事で、意識もはっきりとしていた。ただ本当に転んでしまい、よたよたしている状況だった。自分で色々考える前に私は「この人を送っていく」と店主に宣言してしまい、「ごめんな、お願い」と言われたらもう引き下がれない。初めて会ったおじさんの自転車を引きながら彼の家を目指していった。その道中は、決して不快なものではなく、かといって不思議なものだった。

 やぶにらみのおじさんはたびたび私の腕を握って「なんでこんな優しくしてくれる人がおるんやろ」と聞いてくる。何度も聞かれるから最初は「困ったときはお互いさまやろ」とか「まあたまにはええやろ」と適当に答えていたのだが、途中から、意外とこういう時間も悪くないような気がしてきた。別に正義のヒーローになったという意味ではない。ただ知らない人と知らない道を歩いてああだこうだと酔っぱらい同士話す。それも悪くないなと思ったのだ。もちろんこちらは送り届ける側だから、彼に何かあってはいけない。そういう着ぐるみはあるけれど、他の着ぐるみは一度捨て去って気楽に彼を送り届けることができた。

 家まで無事に辿り着いたら、そこは何軒かの家が並ぶ長屋のようなところだった。彼はここで一人で住んでいるんだろうかと思うと、猫が路地裏から出てきた。そうだった、これがおじさん自慢の猫だったか。おじさんはまた「なんでこんなに優しくしてくれるんやろ」と繰り返して、折角の新しい五千円札をくしゃくしゃにして渡そうとしてきた。「人間そういう時はあるんや」と五千円をおじさんともども投げ捨てて、これ以上話が伸びると同じ事になると思い飲み屋に戻った。

 時間にしたら1時間も一緒に話していないんじゃないだろうか。その酔っぱらいのおじさんと30分以上も一緒に二人で歩いた。なぜかその体験が脳裏にこびりついて離れない。お支払いもしていなかったので再び飲み屋に戻りもう一杯飲んで帰ったのだが、店を出ると、此方は相手を知らないが相手は此方を知っているスタッフの人が小走りに出てきてくれて、「お元気そうで何より」と握手をしてくれた。私は冬にマントを着ることがあって、それが珍しく覚えていてくれていたらしい。世間は狭いなと思いつつ、「町の人が温かい」という表現は今夜のような人間関係の連鎖反応で成り立っているのかなとふと思いながら帰った。私も酔っぱらいだが、この連鎖反応の中でうまく良い働きができる飲み方をしたいものだ。

ポイントの価値

 最近になって、げんなりすることがある。何でもかんでも、「ポイント」が巷に溢れすぎていることだ。各小売店(チェーン)がそれぞれのポイントカードを作っているかと思えば、クレジット会社もポイント、それと連動して電話会社やガス会社の契約にまでポイントが大きく関わるようになってしまった。結局これをうまく活用できるかは個人の自助努力に任されるようになり、「ポイ活」やもっと的を絞った「ウェル活」という言葉が次第に人口に膾炙する様になった。ポイントがたまって嬉しいという人は割と多いものの、個人的にはポイントが跋扈する世の中というのは端的に面倒くさくて詐欺的な世の中なんじゃないかと思う。

 というのも第一に、ポイントの財源の問題がある。たとえば1ポイント=1円で使えるポイントがあるとして、各会社はこれらのポイントをすべて「お客さんへのサービス」として自腹でもっているのだろうか。もしそこまで気前のいい企業があるならば、そのような企業は爆発的に儲けているか、あるいは自社の利益を積極的に顧客に還元した結果、会社の利益はかなり抑えられているはずだ。顧客へのサービスとして一部を負っているとしても、ポイント制度というのは潜在的に、「ポイントが付く分」をサービスに、つまり商品の代金に転嫁せざるを得ないのではないか。これはつまり、「ポイント制度がなければもっと単に安く変えていたかもしれないものが、ポイントが付くせいで高くなる」ということでもある。

 商品の値段が上がってもポイントが付けば一緒じゃないかという向きもあるかもしれないが、ポイント制度は使用範囲と有効期限という二つの点で、日銀が発給するお金に劣る。たとえば小売が独自に出すポイントカードの場合、そのポイントは同じ小売りのチェーンでしか使えない場合が多い。スーパーのポイントはスーパーでしか使えないし、一度にたまるポイントは少額だから、わざわざ会計のたびにポイントを使うということもない。ヨドバシカメラはポイントカード発祥の店だと自負しているが、10%ポイント還元で10万円の何かを買ったとして、貰ったポイント1万円をすぐに使うだろうか?(もちろんそんな人もいるのだろうが)

 さらに、ポイントにはお金と違って有効期限が設定されている場合が多い。なかには1年でポイントが切れる場合もあり、ポイントを受け取ることは明らかにその店や通販サイトに顧客を縛り付ける役割を担っている。この有効期限はポイントを使わせるのみならず、別の役割も担っており、たとえば老齢の人がポイントカードを持つ場合、その人の死後にポイントが3万点残っていても、有効期限が来ればポイントは消えてしまう。箪笥に3万円が残っていれば子供や孫がそれを見つけて生活の足しにできるかもしれないが、故人のポイントまですべて管理している子供や孫はあまりいないだろう。ポイントはいつの間にかはかなく消えていくものなのだ。

 ほかにもポイントのつく条件の煩雑さやそもそもの利用条件の変更を会社ができること(たとえば1ポイント=1円が3ポイント=2円に規約変更される可能性もある)など色々な事情があって、ポイントに振り回されるのは嫌だなと思う。ただ最近、梅田のとある店でスタンプ式の「ポイントカード」を見たときは、どこか懐かしい気持ちになった。ラーメンを10杯食べてくれたらサービスで1杯ごちそうしますね、というものなのだが、そこに素朴な、「御贔屓に」という言葉を見いだして、少しうれしくなってしまった。今では戦略ゲームのようになってしまったポイントも、元は常連客へのサービスだったのではないか。サービスがサービスであるようなポイ活なら、これからもしていきたいし、それだけ常連になれるようなお店をたくさん見つけたい。

目を見て話すって?

 昔からずっと不思議に思っていることがある。「目を見る」という言い回しが日本語にはあって、「ちゃんと人の目を見て話しなさい」などと言ったりする。しかし人間には目が二つある。この二つの目で人間は視覚を得ているわけだけど、右眼と左眼はそれぞれ単独に動いているわけではない。右眼と左眼でどこか一点を見ようとして、右眼と左眼で得た画像データを脳で統合して、一つの映像を作り上げている。しかし、右眼と左眼が「一つの点」を見ているとするならばおかしなことになる。なぜなら、「目を見て」話している相手にも右眼と左眼があるのであり、両目は相手との距離が近いほど主観的には離れて見えるはずだ。そうすると、私たちが「目を見て」話しているときは相手の右眼を見ているのか、それとも左眼を見ているのか・・・。いざ相手と話をして「目を見て」いるときにはそんなこと一切思わないからデータが集まらないし、人に上のようなことを聞くと、キョトンとした表情をされることの方が多い。

 しかし、これだけ「目を見る」という言い回しが人口に膾炙しておきながら、上の問いがキョトンとした表情で受け止められるということは、みんな「相手の目を見ている」という実感がそれなりにあるのではないかと思う。そのような実感がなければ、「言われてみれば確かに」となりそうなもの。心理学などで実験はされているのかもしれないが、ときどき鎌首をもたげてくる程度の疑問というものはなかなか調べられていない。

 ただなんとなく今日、この問題への答えが今の自分の生活態度に結び付いているのではないかという気がハタとした。私は訳あって、普段あまり人の顔自体を見ない。見ないというか、人の顔をあまり上手に識別できないのだ。昔はそうでもなかったはずなのだが、この数年の間にいわゆる「相貌失認」ではないであろうものの、ごく一部の人以外の人の顔があまり分からなくなった。「人の目を見て話す」という言い回しがある一方で、世間には「あの人はちゃんと目を見て話さないよね」といった言い回しがある。私のように目を見て話さない人は、別にその人の鼻や口に注目しているわけではない。そもそもその人に注目していないのだ。そしてそのような態度をとられることにあいては不機嫌な気持ちになる。

 つまり「目を見て話す」というのは、実はその欠如態である「目を見て話さない」の不快感からきたのではないだろうか。どちらの目を見ているかなんてどうでもよく、何なら目を見ているかさえどうでもよい。目が話相手の顔にフォーカスを当てるように向いており、それ故に目を向けたら目が此方を向いているように見える、それが大事なのではないかとふと思い至ったのだ。

 なんとなく良い仮説を見つけた気分で職場から帰っていると、それはそれで少し怖くなってしまった。それでは恋人同士のように、「見つめ合う」とはどういうことなのだろう。たとえば私が好きな人と見つめ合っているとき、お互いは「顔にフォーカスが当たるように視線が動いている」程度の意味でこう言っているのだろうか。何だかそれはそれで、少し寂しいというか、哀しい気持ちになってしまう。やはり私たちはどこかで「目が合っている」という実感が欲しいのかもしれない。

ユニフォームとオシャレ

 昔、「銀魂」というアニメが放送されていたころのこと。とても有名な作品だったのだが当時の私は毎週見ていたわけではなかったのだが、なぜか印象に残っているシーンがある。といってもたまたまテレビをつけてみると流れていたのを見ただけなので細かいところまでは覚えていないのだが、主人公が「アニメの主人公はいつも同じ服を着ているが、服はどうなっているんだ」と尋ねられて、大量の同じ服を見せるというシーンだった。なるほど同じ服がたくさんあれば見かけはいつも同じ服を着ているように見える。アニメについて回る服装の問題をパワープレイで解決する様子を見せられたようで、不思議と頭に残ったのだと思う。

 しかしいざ我が身を振り返って考えてみると、おそらくここ15年くらい、ほとんど赤と黒の服しか着てこなかった。もちろんアニメの主人公と違ってすべて同じ服というわけではないが、赤か黒のスラックスかパンツに赤か黒のシャツを着るという点ではずっと同じような服装をしてきた。大学に入ってつけられたあだ名が「赤黒い人」になる程度には一貫していたと思う。最近は赤のパンツをはく機会もなくなったので、下は黒のスラックス、上は赤か黒のYシャツで仕事をしていた。

 なぜ赤と黒なのかというと理由はあるのだが、とにかくここまでガチガチに服装をかためてしまうと、何かと楽だったことは間違いない。特に昔の私は、どの服にどのズボンを合わせるなどと考えること自体が億劫で、赤と黒に一度決めてしまえば、上と下で4通りの組み合わせしかないのだし、どの組み合わせでも無頓着(さすがに赤×赤は気にしたかもしれないが)。箪笥の上から順番に服をとって着るような日々が続いた。アニメの登場人物の服装をいちいち代えていては作者さんが大変なように、私にとって赤と黒はある種のユニフォームになっていたのだった。

 ところが一年くらい前から、少し様子が変わってきた。きっかけは二つ。一つ目は前にこのブログでも取り上げた、ヒスイカヅラのシャツ。阪急百貨店の沖縄展で一目ぼれしてしまい、一度は立ち去ったものの「もうこんな機会はないかもしれない」とクレジットを切った。いざ着てみると、服に自分が負けているような気がして最初は違和感があったが、何となく歩いていて気分がよくなり、ヒスイカヅラのシャツはそのまま、楽しい時を過ごすためのとっておきとなった。

 もう一つのきっかけは、友人との会話だった。いつもお世話になっている友人と久々に会って話をした際、私がAmazonで服を買っているというと大笑いされてしまった。そのまま服の話になり、彼女の「オシャレをすることで、気分を変えることができる」という言葉ではっとした。人生の中で初めて、オシャレ自体に着飾る以上の効果があるのかと、その時になってようやく気付いたというか、言葉ではっきりと言われて「なるほど」と腑に落ちたのだ。

 とはいえこの年になってオシャレに目覚めたとしても、これまでそんなこと気にも留めなかったからどうしよう、となる。友人に黄色や緑も似合うよと言われてすっかりその気になりはしたものの、なかなか気に入る服は見つからない。そんな折にふと「かりゆしウェア」のページで綺麗な鳥をモティーフにした服を見てしまい、えいやと購入してしまった。

ようこそ、かりゆし

まだ一度しか着ていないが、この服は私をどんな気分にさせてくれるのだろうか。ユニフォームは便利だから普段は赤と黒で、特別な日を中心にほどほどにオシャレになっていきたいが、未だにパンツの方に手を出す勇気もなく、アクセサリを買うくらいしか思いつかない。道のりは遠そうだ。

爪に穴があいた話

 子供のころから今に至るまで、どうしても抜けない癖がある。めくってはがせそうな所があると、爪でいじってペリペリとめくりたくなってしまうのだ。ただめくるはめくるでも、日常生活を送っていてその辺にめくれるものがたくさんあるわけでもない。ただでさえ怪我をしやすい子供のころ、私はかさぶたが少し浮いてきたときを狙って、自分のかさぶたをはがしたくなるようになっていた。子供にありがちな話ではあるだろうが、どうも綺麗にむけたときの気持ちよさは相当なものだったらしい。大人になってかさぶたができるような怪我をすることは少なくなったが、仕事柄手荒れなどが起こると、今でも荒れてぴょんと立った皮膚の一部をめくって、はがそうとしてしまう。

 普通、痛いのは嫌だから避けようとするはずなのだが、かさぶたや傷跡をめくる癖がつくと同時に失敗して出血することにも段々慣れてきてしまう。もちろん痛いのは嫌なはずなのだが、慣れてしまったのだからどこをめくって失敗するとどれくらいの血が出てどれくらい痛い思いをするかも大体想像がついてしまう。慣れとは恐ろしいもので、血が出るリスクよりもめくりたいという思いの方が勝ってしまうのだ。

 そんななか、二週間ほど前にちょっと大変なことが起こった。以前、爪の上の方がひび割れてしまったことがあるのだが、その白くなった跡がどうしても気になってしまい、爪切りで削ってとってしまおうとしたら、勢い余ってずるっと爪の根元に穴をあけてしまったのだ。このときはさすがに焦った。出血もしばらく止まらずはてさて困ったと思ったのだが、しばらくして気づくと硬い爪の真ん中に、小さな赤いいくらのようなものができている。爪にできた穴から、炎症を起こした皮膚が膨れてこんにちはしていたのだ。

 このとき、何となく「気持ち悪いな」より「面白いな」と思ってしまった。考えれば、爪が皮膚組織の死骸でできているという話は学校で教わったけど、爪がいくら伸びたところで爪=皮膚の死骸という実感は得られなかった。でも爪に穴があいたことで、これからこの炎症を起こした皮膚が死んで爪になっていくのを実感できるかもしれないと思ったのだ。ブログで出すのは控えるけれど、数日おきに写真を撮って記録に残しておくことにした。

 二週間経って写真を見返してみると、確かに少しずつ変化が起こっている。穴があいた周りの爪もだいぶめくれて薄くなっていたのだが、その部分は徐々に固くなり、まだ押すとぷにぷにしているが、それなりに爪らしい硬さを備えるようになっている。あいた穴から覗いていた皮膚部分はどこかにぶつけるたびに出血を起こして結構困ったのだが、最終的に二週間もするとあまり出血しなくなり、炎症のふくらみもおさまって爪になる準備体操をしている。なるほど、あのときの炎症を起こした皮膚の屍が少しずつ爪を作っているのかと、少し感慨深い気持ちになった。上側の爪とこれからどう一緒の爪になっていくのか、そもそも正常な爪の状態まで戻るのかも分からないが、こうなってしまったものは仕方がないのだから、面白い体験をしたと思っておこう。

「乗ってみる」ことの大切さ

 有名な話かもしれないが、同じ通勤路でも、同じ道ばかり通って行き来する人よりも、色んな寄り道をして行き来をする人の方が幸福度が高いという話がある。確かに、同じ道ばかり通っていても見える風景に大きな違いはないかもしれないが、色んな道を通っていたら何か面白いものや楽しいお店に出会える確率は高くなるかもしれない。もちろんこの話は違う解釈が可能で、色んな道をフラフラ歩き回れる人にはそこそこ精神的な余裕があって、同じ道、それも最短距離で家に帰って少しでも寝たい人にはそんな余裕がないというだけなのかもしれない。ただ、どちらが実情に近いかはさておき、行ったことのない道にそれだけの魅力を考慮できるということは事実だろう。そして行ったことのない道に魅力があるように、やったことのないことにも同じような魅力があるのかもしれない。

 最近、「やったことのないことを提案されたら、積極的に乗ってみる」ということを心がけている。先日は友人がミイラの作り方に関心があるという話になり、代わりに私が本を手配して、自分もその本を読んで友人に貸すことにした。小さなことかもしれないが、ミイラについて知れば、何か楽しいことがあるかもしれない。友人の趣味(?)に乗ってみたわけだ。何でもかんでも乗るわけではないが(昔「イエスマン」って映画あったよね)、金銭的・時間的・体力的余裕が見込めれば、なるべく新しい話には乗ってみるように心がけている。

 こういうとき大事なのは、「自分の趣味」で選ばないようにすることだ。自分の趣味を間に挟んでしまっては、「こんなの私の趣味じゃないしなあ」と、これまで積極的に手を付けてこなかったことは退けられてしまう。結局、いつもの自分の趣味の範疇のことばかりしていては、やったことのないことはいつまで経ってもできなくなってしまう。だからこういうときはたとえ博打だとしても(というかこの手の経験は全部博打なのだ)、えいやとやってみるのが良いのだ。ダメだったら静かに手を引いて、それこそ「趣味に合わなかったな」で終わればよいのだ。

 話は少し変わるが、残りの人生の短さを予感して、最近「エンディングノート」をつけはじめた。いわゆる「死ぬまでにやりたいことリスト」だが、死ぬまでにやりたいというくらいだから、これまでやったことがないけど興味がないわけでもないものがリストには並んでいる。きっとここに書かれていることは、対人関係に関わるものでない限り、「私の趣味」と「未知のやったことないこと」の狭間に当てはまるんだろう。博打に乗っているうちに、エンディングノートがもっと充実して、なるべく書かれたことを達成してから死にたいなと思う。そのためにも、もうちょっと時間的・金銭的・体力的余裕がしっかりもてたらいいんだけど。