個室にて

Ars Cruenta

他人の手間

 他人に手間をかけさせることを何とも思わない人というのは、いろんな形で現れてくる。原因を調べずすぐに「物が壊れた」と言う人から、店に入って何がどこにあるかと人を案内させる連中まで、千差万別であるが、人に手間をかけさせる以上、そういう人たちは(最初はあったのかもしれないが)基本的な探索能力が恐ろしく欠如している場合が多い。これがたとえば、プリンターの異常でこれこれのエラーが出ているか確認できるか、といったことならまだできない人がいても不思議ではない。しかし、ひどい場合だとこれが、日本語が分からない(もう少し言い換えるならコミュニケーションができない)の次元まで行くことがある。人から言われたことの意味が分からないのに、人が悪いと怒鳴りたてるパターンである。

 他人に手間をかけさせる人間になりたくないと思う一つの理由は、このように自分がそこまで落ちぶれたくないと思うからだったりする。スーパーに行ってほしいものがなくても、少々の苦労を惜しまず商品を探す。それでもなければ初めて店員に聞く。非効率という人もいるだろうが、何でも人に聞いて店員の労をかけるうちに自分の能力がやせ細っていくよりは、少しは何でも自分で調べたほうがスキルアップにも役立つ。だいたいのスーパーは同じような所に同じようなものを置いているのだから。

 また、能力の涵養をさておいても、人に何でも手間をかけさせることは、要は人に依存することを意味する。人に依存して最初は面倒をかけてみてくれていても、だんだん相手も嫌気がさしてくるだろう。そうすると、相手の行動というのは機械的にルーチン化される。「言葉で疑問点をいえますか? 言えませんか? なら次に進みますね」式の介護をしばしば目にするのは、こうしたルーチン化の顕著な一例で、それで割を食らうのは結局のところ介護される側なのだ。

 もちろん介護される人間の全員がそういう人間じゃないことを、私は経験的によく知っている。また、この問題が高齢者に限らないこともよく知っているつもりだ。お互い人間らしく付き合っていくためには、他人の手間を踏まえた行動をとる必要がある、それだけの話なのだ。