個室にて

Ars Cruenta

私だけの推し

 テレビで、まるでそれが良いことであるかのように「推し活」が話題となっている。最近では何の設定もない「推しのつけている香水」を作るサービスまであるそうで、そこまでいくと私は多少の怖さを感じる。というのも、推しが好きだという気持ちは否定されないだろうが、その推しが客観的に存在すると言えるかは推し活が過激になるほど怪しくなっていくからだ。同じキャラクターを愛しているように見えて、そのキャラに自分が託すものを付与していけばいくほど、そのキャラクターの観念は一個人に特化していく。これは心の中に自分が自由に愛でられる便利の良い召使を飼いこむようなもので、この便利さに慣れてしまっては、現実に存在する生身の人間なんてものに耐えられなくなってしまうのではないかと怖くなるのだ。

 他人とは、自分とは異質なもので、他人をそのまま「推し」にすることはできない。アイドルが好きな人も、「このアイドルならばこのシチュエーションならこうするだろう」と妄想をたくましくすることは出来ても、アイドルが実際することを何でもかんでも肯定できるわけではないだろう。この意味でオタクや推し活の「好き」は、複雑な人間関係の網の目のうえで形成される人間同士の間に成り立つ「好き」とは異なったものになる。もし人間を実際に自分好みの「推し」にできるとしたら、それは相手を自分好みにカスタマイズ・チューニングするという無際限の過程によってでしかない。この過程は実際にやろうと思えばいつも失望と哀しみが付きまとうだろう。なぜなら、チューニングしなくてはならない実際の人間の行動がある時点で、それは「推し」の理念をゆるがしかねないからだ。

 それではこういった頭の中の「好き」を膨らませるのではなく、人間同士がそれぞれちゃんと人格を持って好意を寄せあうにはどのようなことが必要なのだろう。ひとつはなんでもかんでも欠点を直そうとするのではなく、時間をかけて付き合っていくことではないだろうか。何事についてでもそうだが、必要なのは思弁より経験で、相手が何かをやらかしたときに「やっちまったなあ」と言えるだけの糸を縁ることだ。運命の赤い糸とはおそらく結果であり、縁らない糸はあっという間に切れてしまうものなのだと思う。恋愛しかり、友人関係しかり。