個室にて

Ars Cruenta

怒らせる謝罪

 よくキレる人よりも、だいたいのことは笑って済ませてくれる優しい人の方が、本気で怒ったときは怖い。すぐ感情的になる人と違って、いつもニコニコしている人はいろいろなものを押し殺してニコニコしていることが多い。よほど人間に関心がなくてニコニコしている場合もあってそういうときそんな人は怒ることもなく離れていくのかもしれないが、相応に人間に関心がある人ならば、どこかで虎の尾を踏まれてしまったとき、これまで蓄積されていたものが一気に噴き出して大変なことになることがある。

 その「虎の尾を踏む」タイミングになりがちなのは、何か行為をやりすぎたとかそういうことよりも、実は中身のない謝罪をするときなんじゃないかという気がする。先日も普段は仏のような人が声を荒げて怒る様子を目にしたが、そのきっかけになったのは失敗をした人が形式的な言葉を並べて適当に謝ったときだった。迷惑をかけたり加害をしたりする側は、自分では気づいていないかもしれないが、相手を傷つけたり迷惑をかけたりすることに慣れきってしまって、そのたびに適当言って済まされている。だから自分が大変なことをしでかしてしまったときも事の重大さが分かっておらず、いつもと同じように適当言って済まされると思い込んでしまう。それが相手の逆鱗に触れて、時にそれは取り返しのつかないことになるのだ。周りから見ていたら、「あーあ、なんで今ここでそんなこと言うんだろう」という気持ちになる。はたから見ていたらいわゆる「手の込んだ自殺」にしか見えない。

 こんな私も稀に虎の尾を踏まれる側になるのだが、なぜ適当に謝られるとあんなにムカつくのだろう。たぶん、相手のやっていることがある種の芝居にしか見えないからだろうと思う。迷惑だろうがもっと深刻な加害だろうが、それに取っ組み合ってこちらは後始末をしたり涙をのんだりしなくてはならない。それに対して相手はまるでフィクションかのように劇をすれば何でも許されると思っている。それも、中身のない劇だ。自分が何をどう悪いことをしたか分かっていないから、謝るべき罪の内容は形式的で中身がない。自分がしたことが悪いことだと分かっていないから、言葉を尽くすこともできない。そして何より、悪いことをしていないのに謝らないといけないのだから、謝罪の節々に「私はこんなことをさせられている被害者だ」という雰囲気がにじみ出ている。政治家の謝罪会見なんかでよく見るやつだ。お金を払ってつまらない劇を見せられるのも嫌だが、現実と取っ組み合っている傍でふざけた劇をされるのはあんまりにも醜悪だ。

 先日、上司と色々話していてちょうどこんな話をしていた。普通のことをちゃんとできない人というのは困るねと言いながら、彼は「でも自分は怒るけど、どうするべきかは言わない。大人になって困ればいい」と言っていた。私は少し考えた後、「でもそういう連中が大人になったあと、そいつらの始末をつけさせられるのはあなたのような人ですよ」と応じた。彼の虎の尾を踏む人は現れるだろうか。