個室にて

Ars Cruenta

したたかな感情

 心のどこかで自分に情愛を感じてくれているだろうと思っていた人に、これまで自分は裏切られたと感じてきた。しかし最近あることをきっかけに、その人はそもそも私にそんな感情を抱いていないということが何となく分かった。その人にさっそく新しい恋人ができたとき、「好きでもないならストーカーなんてなるなよ」と思っていた。しかし実際は逆で、好きでもないから、相手のことなんてどうでもいいから、自分の感情一つで人を追いかけまわすことも周りを傷つけることもできたのだ。「好き」という気持ちの芝居のなかに自分はずっと巻き込まれてきたということになる。

 それでも自分はその人にしっかり今でも情愛を抱いている。憎しみや嫉妬を抱くことはあっても、その人を呪おうとか、その人が死んでしまえばなんて思うことはない。付き合っているときも、実際にはいろんなことがあった。盗聴盗撮は当たり前、「お前は何も考えていない」とたびたび罵られ、お金の使い方に一言かけると激昂され、やめてほしいことは何もやめてくれなかった。逆に同棲を本格的に考えるようになるにつれ此方の行動を非難し謝罪を要求する機会が増えてきて、挙句の果てにデートでもDVじみた暴言が続き、二人の始まりと自分の仕事に関わることでとんでもないことを言われて耐えきれなくなり連絡を絶ったところに周囲までもを巻き込む事件が起きた。やや倒錯しているように見えるが、それだけのことがあっても、自分の持つ情愛の気持ちを簡単に忘れることができない。

 なぜだろうと考えたときに、やはり友情にせよ愛情にせよ、情愛の念というものは経験と時間をかけて少しずつ芯を持つものなのだろうと思う。最初はもろくて簡単になくなりそうなものだったのが、いろいろの経験のなかで形を整えられ、多少のことでは壊れない気持ちに結晶しているのだと思う。ある行為で耐えきれないようになっても、時間さえあればまた関係を続けられるようになるくらい、その結晶はしたたかなものとなっていたのかもしれない。ただ、結晶はこちらの側にしかなかったという落ちで終わってしまった。

 さいわい、全く友達がいないわけではないが、友達は家族にはなってくれない。また家族になってくれるような相手にこのしたたかな感情を結晶させることができるだろうか。今度はふたりで一緒に。