個室にて

Ars Cruenta

ヘルプマークの不思議

 ずっと前から、たびたび言ってきていること。ますます街中でよく見かけるようになった、「ヘルプマーク」のことである。要は何らかの事情で身体的・精神的に困っている人が身に着けるもので、これを見た場合、周りは配慮せよというものである。「要は」と乱暴にまとめたものの実際にかなり乱暴なマークで、はじめに見た時からよく分からない。

 たとえば妊婦さんが身に着けるマタニティマーク。妊娠初期でお腹が大きくなっていなくても、このマークがあれば妊婦さんだと分かり、妊婦さんとわかれば、そのしんどさを何かで見たことがある人であれば席を譲ったりするだろう。マタニティマークは「妊婦である」という継続した状態と、それに期待される配慮の内容をある程度指示してくれる。

 これに対しヘルプマークは、まずそもそもその人が何ゆえに困っているのかを指示しない。実は片足が義足なのか、パニック障害持ちなのか、見た目で分からないから記号をつけているというのに、記号を見ても「困っている」ことしか分からない。さらに「妊婦である」とか「義足である」という継続した状態で困っているパターンもあれば、パニック障害は特定の状況下で条件が整えば発生する。つまり、ヘルプマークをつけている人が必ずしも「いつも援助を必要とする」とも限らない。そうすると何で困っているのか以上に、どのような援助を必要とするのかはますますわからなくなる。「配慮せよ」と言われても、目の前を普通に歩いている人にどのような配慮をすればいいのか。

 この話、「困っているときに配慮せよ」となると、一層話がおかしくなる気もする。たとえ五体満足で健康な人が階段から落ちたら配慮が必要なのは、義足の人がうまく足場を渡れないときと同様であろう。そうなると、だれであれ困っているときには他者の配慮が必要なわけで、それをヘルプマークによって指示する必要がどこに出てくるのかが分からない。たとえばパッとだれかが倒れているとき、その人がなぜ倒れたのかは(たとえヘルプマークをつけていても)結局本人に聞くほかない。単に階段でスリップしたのか、階段を下りる途中で持病の発作が起きたのかなどだ。そこで駆けつけてくれる人がいなければ、階段で滑った人も持病の発作持ちの人も救われない。大事なのはマークをつけることよりも、いざとなったときに誰かが駆けつけてくれるようなコミュニケーションある社会を作り維持することで、「マークをつけていたら配慮されるはずだ」という発想は、このアイディアにともすれば反するのではないだろうか。そんな気がするのである。