個室にて

Ars Cruenta

「エコな暮らし」の後背

 今に始まった話ではないけれど、田舎で「自給自足の生活」を送る家族のドキュメンタリが最近やたらと増えたような気がする。動物番組やニュースの特集などで、大抵は子供のいる家庭が取り上げられて、自家製の野菜や山に生えたものを食べる姿や、味噌やこんにゃくを手作りする姿、あるいはニワトリなどがいる家庭では命の尊さという概念と同時にそれを食べるシーンが描かれる。都市生活者からは考えられないような田舎暮らしが、しばしば「自由で伸び伸びとした生活」とか「エコな暮らし」としてポジティヴに描かれることが多い。そりゃそうだろう、「こんな悪い暮らしをしている」なんて言ったら取材を受け付けてくれなくなるのだし。

 ルーンファクトリーで育った世代としては、こうした風景はゲームの画面上でカブをせっせと作る自分の姿を思い出すところがある。そういえば昔、将来は小さな無人島を買って生活したいと思っていたこともあったっけか。そういう羨ましさを感じる一方で、いつもこういう話を聞くと、どこか騙されているような気持になる。たとえば自分が無人島暮らしを考えたとき、結局はどこかで買い物をしたくなる。本当に島にある物だけで生きていこうという発想自体がそもそもない。それはこうしたエコな暮らしの実践者もだいたい同じで、何かを売ったり御用聞きをすることで一定の収入を得て、車を走らせてスーパーに行く姿が定番となっている。(前に見たある人はヒッチハイクでスーパーに通っていたっけか。)当たり前と言えば当たり前なのだが、エコな暮らしを成り立たせているのは、エコじゃない暮らしをしている大多数があってこそなのではないか、そんな気がしてくるのである。

 ただこれだけだと単にエコな暮らしもそう簡単なものじゃないというだけだろう。騙されているという感覚の根っこには、「みんなが同じようにして生きていけるだろうか」という感覚があるような気がする。たとえばみんなが一週間に一度、最低限のものだけ買いにスーパーに通うようになったら、スーパーは維持されるだろうか。そのとき、「スーパーはなくなったけどみんなが買いに来るものの専門業種のお店だけが残った」なんて話になるのだろうか。たとえばスーパーがなくなって都合よく納豆売りが出現したりするのだろうか。

 昔、これと同じような感覚を覚えたドキュメンタリがあった。大阪で人のお悩み相談などをして人の家に泊めさせてもらって生きていく「幸せのホームレス」の話だ。同じようにたくさんの人が「幸せのホームレス」になれるだろうか。幸せのホームレスが一人しかいないから、彼は暖かい部屋で飯を食らいいびきをかいて寝られるのではないか。エコな暮らしにせよ幸せのホームレスにせよ、その人たちの生き方自体に文句をつけることは出来ない。しかしそれがみんなでは享受できない幸せであることには少し、関心を持っていた方がいいかもしれない。