個室にて

Ars Cruenta

感情の世話

 自分自身の感情を適切に管理しないと他人とはなかなかうまくやっていけない。人が自分の気持ちを慮ってくれるかも大事だが、そもそも慮ってもらえる程度には感情を世話してやらないと、周りから人が離れていってしまうか、後述するようにピエロのようになってしまう。ただなかなかこの感情の世話というのが難しい。イライラしているときにはやはり人に当たってしまいそうになるし、哀しいことがあるとそれを忘れて済ませてしまいたくなる。

 感情の世話が適切にできないパターンはきっと二つあるのだと思う。ひとつは分かりやすくて、感情を加工せずそのまま外に吐き出してしまうパターン。要は、むかついたら怒鳴って、ちょっと嫌なことがあれば泣き出してしまう人である。少し人に待たされただけで待たされた以上の時間ぐちぐち怒鳴る人や、自分のケーキの取り分が人よりちょっと少ないだけで泣き出してしまう人や、とかく小学生より幼いまま大きくなってしまったような大人というのは案外多い。ずいぶん前になるが、無抵抗の店員に自分の職場であった嫌なことを15分以上話し続けるおばさんがいたっけか。

 かといって、感情を押し殺したり感情を惹起したりするのに慣れすぎては、感情がそもそも持つ意味を根こそぎにしてしまう。過度な感情のコントロールによって感情の持つ値打ちをそもそも根こそぎにしてしまう人である。最近は怪しげな心理学の本などが感情のコントロールをしきりにうたったり、まるでそうでもしないと涙すら出ないかのように「涙活」という言葉がでてきたり、実は此方も深刻な感情の機能停止なのではないかと思う。あるときは何かを哀しいと思っている人が感情のコントロール一つでその対象をどうでもいいと思うなら、その人にとってそもそもその対象は関心事だったのか、あるいは必要なものだったのかと誰しもが思うだろう。同様に怒りをこらえることと怒りをなくすことは全く別だ。また、一時物語の世界にはまりこんである感情をもって、現実に帰ってきたら「すっきりした」という気分しか残らないのならば、それは「久々に体を動かしてすっきりしたが、明日からはどうだろう」というのと同じ状態ではないか。社会のなかではしばしば、感じたことをそのまま表出してはいけない。かといって感じること自体は大事なことのはずだ。