個室にて

Ars Cruenta

後悔

 とかく、あれやこれやと後悔することが多い。後悔するまでに蓄積された習慣が長ければ長いほど、後悔するようなことが起きる前の思い出に特別なものがあるほど、それを失ったり損なったりした経験を延々と後悔し続けてしまうきらいがある。いまだに10年前のことでも後悔していることはたくさんあるし、自分が悪いことをしたわけでもないことでも何か別の道があったのではないかと思い悩むこともしばしば。さらに悪いことにそういう後悔はかつての楽しい時間を想起させ、時には夢のなかに再現させる。そうなるとその楽しい時間を失った自分がますます罪深い人間であるかのように思われて、心がぎゅっと委縮する。委縮した心の隙間に、喪失感と根無し草の感じが同居して、なんとも言えないが、どうしようもない気持ちになる。

 後悔というが鬱状態に近いのかもしれない。人に言えば大抵は心療内科を勧められる。しかしいろいろの話を聞くにつけ、心療内科が必ずしも信用に足る場所とも限らない。良い医者に当たれば一時の心の拠り所になってくれるかもしれないが、悪い医者にあたって三環系抗うつ薬の依存症になってしまったらどうしようとか、そもそも自分がこうなった後悔には無数のものがあるので、それをどう人に話し、どれくらい話したいかが分からないまま行くのもなあと思い数年が経過している。

 職業柄か、身の回りにも時々切羽詰まっている人というのがいて、そんな人の中にはたとえば、悩みや後悔を振り切るかのように黙々と仕事に打ち込む人というのもいるように見える。なるほど、そんなこと考えられないくらい忙しくなれば、確かに後悔せずに済むのかもしれない。しかしふと一仕事終えて忙しくなくなった途端、自分は再び後悔の淵に呼び戻されてしまうのではないかという予感がある。後悔とは少し違うが、飲み会で色々な話をして盛り上がったあと、私は一人帰るときいつもとんでもない寂しさと空しさを感じる。決して無益でもつまらなくもない楽しい場にいたはずなのに、ひとたび一人家路につくと、どこか「醒めて」しまうのだ。

 いや、後悔とは少し違うが、と言ったけれども、後悔というのもひとつの「醒めた」状態なのかもしれない。なにかを感情的にであれ考えの上であれやらかしたことに気づいたあと、あるいは何かを信じていたのに裏切られたり考えの筋が違っていることに気づいたりしたとき、私はこれまでのぬくもりある空間にもはや自分がいないと気づく。その場でその人が反実仮想的に抱きうるのは、醒めないようにするにはどうすればよかったのかと、もっと早く醒めていたとしたらどんな未来があったかの二択なのだろうか。それとも、夢を現実にするように努力することができたのだろうか。