個室にて

Ars Cruenta

ボーっと生きてちゃならんのか?

 NHKでかなりの人気番組となっている「チコちゃんに叱られる」。自称5歳のチコちゃんが演者に素朴な疑問を吹っ掛け、答えられないと「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と𠮟られ、チコちゃんが答えを発表し、専門家がそれを解説する。一見して小さな子供の素朴な疑問を大人に突き付けて「あれ、そういえばなぜなんだろう」と思わせる構図は、よくある「子供は小さな哲学者」系の発想を思わせる。ただ果たしてそうなのか。どうもこの番組を手放しに好きになれないところがある。

 第一に、「チコちゃんは知ってます」のキメ台詞で明らかなように、チコちゃんは自分が人に聞いている素朴な疑問の答えをハナから知っている。チコちゃんは、「そういえばどうして目をつぶっているときも世界があるなんてわかるんだろう」とふと不安に思う子供とは違い、自分が知っていることを相手がこたえられるかを試しているのだ。そして相手が分からないと、「お前はボーっと生きている大人だ」と非難する。これは知識を利用した一種の暴力なのではないか。子供と大人の関係で分かりにくければ、たとえば若い女性が「お前はぴえんの意味も分からないのか、イマドキになってボーっとしているなあ」と中年タレントを笑いものにする場面などを想像してみるとよいのではないか。知識の欠如をもってその人の生き方を非難する手法は、どこまで許容されるのだろう。

 第二に、仮にチコちゃんの知っている様々な知識が私たちに身についているべき知識なのだとしよう。たとえばレジ袋はもともと果物狩りでストッキングが破れるため開発されたとか、そういったことも含めて私たちの生活の後背にある様々な知識が「ボーっと生きていない」証明のためには知られていなくてはならないとしよう。そうするとNHKはチコちゃんを使ってボーっと生きている人々を非難させるだけではなく、ボーっと生きないようにするための教育番組を作るべきなのではないか。ただこの番組が扱う内容からすれば、高校講座程度で補えるものではないし、何かを疑問に思うことは一種の努力で身につく能力だとしても、生活の背景にある何もかもについて疑問に思うこと(さらにはそれを解決すること)は人間の能力を超えているのではないか。

 過激であるがゆえに売れているのかもしれない。しかし過激な単純化はもちろん、私たちの知識のなかでチコちゃんが知っていることをどう位置付けるかという問題、たとえば何がどれだけ共有されるべきで、どこからが文化・どこまでが科学の問題なのか、いつボーっと生きている人にとってこうした知識が問題となるのか、といった様々な問題を蔑ろにしてしまいやしないだろうか。