個室にて

Ars Cruenta

繋がりと時間

 人間関係と言えば、一緒にいればいるほど濃密で健全なものになりがちだと思い込んでしまう。けれどもお互いをよく知ったうえで結婚するはずの夫婦が離婚したり、ずっと同じクラスで一年生きていくなかでごく一部の生徒がいじめに遭ったり、あるいは会社の人とずっと一緒に働いていてもいまいち絆のようなものが芽生えなかったり、人間関係というものは単に時間をかけて単線的にうまくいくものではないらしい。

 逆に、不思議なほど、あまり会わないのにうまく続いていく関係というのがある。もうちょっと正確に言えば、もう一年に何度か、場合によっては4年で一度しか会わないのに、うまいことお互いのことをそれなりに配慮して続けていける仲というのがある。もちろんそういう人とはSNSで連絡を取っているケースもあるのだが、私の場合、先日5年くらい連絡を取っていない同じサークル(?)だった二人に連絡を取ったところ、二人とも連絡を歓迎してくれ、距離やコロナもあって会うことは出来ないものの、オンラインでの会話まで提案してくれたのだった。

 不思議な縁と言えば、こんな不思議な話もある。私は小学5・6年生のころ塾に通っていて、そこで仲良くなった人がいた。お互い志望する中学も違ったのだが、どういうわけかそれからずっと、15年以上経って大人になった今でもなぜか律儀に年賀状だけは送られてくるのだ。もともとは親が「~君にも出しておこう」と言っていたのかもしれないが、大人になって会社勤めとなってもこのようなやり取りが続くというのはなかなか珍しいのではないか。

 これはなにも、その人との距離感が時間という形で現れているだけではないだろう。人との縁を砂浜の文字のように消さずに残して置ける何かがそこにはあるのだ。それではそれは何なのだろうと考えたときに、一つ思いつくのは「あの人に会いたいな」という意志でも神様の偶然でもなく、ただ単に「相手に気を遣えること」なのである。相手からの気遣いがあったから、ふと思い出したときにまた会ってもよいとなる。気遣いが認められたから、ふと連絡したときにまた会ってもいいよとなる。実際、短い時間で終わってしまう関係、どれほど頻繁で長く続いても終わってしまう関係というのは、相性もあるのかもしれないが、どちらかの気遣いが欠けていたと感じることが多い。対人関係に関わる私の罪悪感の半分は、このことにかかっていると言ってもいい。

 人にやさしく、というのは言うは易しで、私のようなヤクザものには相当の精神の集中をしていてもなかなかできるものではない。どうかそれを自然とできる人望の厚い人間になってみたかったものである。