個室にて

Ars Cruenta

有用性いろいろ

 「それってなんの役に立つの?」はカミソリのように現代では要るものと要らないものを腑分けする道具となっている。役に立たないものは要らないもので、「不便なのが良い」と主張するときでさえ、その人は不便がもたらす有用性を主張しなくてはならなくなっている。なんせこの問いは多くの場合、その生産物を生み出す人の経営状況や、その人を取り巻く環境がどれくらいその人に共感してくれるかに関わってくるものだから、みんな頑張って自分がやっていることが役に立つのだと主張する。

 ただやはりこの手の話を聞いていると気になってくるのは、有用性という基準そのものが結構曖昧で、誰のために、どのような点で有用なのかというのは案外問題とされない。たとえばよく言う「社会の役に立つ」といっても、その製品が社会に住むすべての人に役立つかはわからず、エンドユーザーの範囲は案外狭かったりする。「社会」のように大きく漠然とした主語でみんなの役に立つとアピールする人がいる一方で、難病の解決のように、それで救われる人が少なかったとしても、ぜひ推し進めてほしいと思われる研究活動などもある。

 「どのような点で」を「どのような目的を果たす上で有用なのか」と言い換えてみても、同様の問題が生ずる。たとえばある植物は一万円札を作るための原料となるうえで役に立つ。ネジが機械を作るために必要であるように、あるサービスはたとえばまちなかでの電子決済を行うために必要なのだろう。このように現在存在する何かを生み出すために必要とされるという意味での有用性がある一方で、感情に訴えることも有用性の一つと考えることもできるだろう。よく「泣ける映画」とか「ラスト5分で衝撃の〜」という陳腐な言い回しがあるが、こういう言い回しというのは消費者が泣いたり衝撃を受けたりすることそれ自体を映画の効用だと主張しているように見える。

 別にここでは、有用性のジャンルを整理することがしたいのではない。むしろ問題は、こうした整理では何がこぼれ落ちてしまうのかという、これまたありきたりの問いかけである。なにか(お金も含む)を生み出したり感情に訴えたり、あるいは不特定多数の膨大な誰かや特定のごく限られた人達に向けたり、そういう形でしか何かを生み出すことはできないのだろうか。限られた、けれどもそこそこ流動性のある組織の中で、人々の生き方のスタイルを生み出すような生産というものがあるのではないか。何とは言わないけれども。