個室にて

Ars Cruenta

「本当の○○は××しない」

 今日食事を食べに行ったところで流れていたお昼の番組で、付き合っている女性の依頼を受けてモデルが男性にハニートラップを仕掛けて浮気の可能性のあるなしを調べる仕事が話題となっていた。なんとも世知辛いというか、そういうチェックにかけないとお付き合いできないのかしらと思いつつ、こうした仕事に賛同する声のひとつに「本当の愛があるのならデートの誘いに乗らないだろう」という視聴者の声が紹介されていた。

 スタジオではすぐに「本当の愛ってなんだよ」と突っ込みを入れていたのだが、個人的にはむしろ、「本当の愛があるならば、その人はこういう行動をとらない」という、後件が否定形の命題になっていることが気になった。「本当の愛」が何者かと問うとき、「本当の愛とは~である」と肯定形で答えないといけないはずである。これに対し、この視聴者は「本当の愛とは少なくとも~ではない」という形で事態を了解しているのだろうか。しかし、この条件が増えていったらどうなるだろう?

 単に知識について考える次元では「Xとは少なくともAではない」という形の言明がどれだけ増えても、そんなに困らないかもしれない。たとえばアルビノでも奇形でもない普通の鴉についてルーズに言えば、「鴉は三本足ではない」「鴉は白くない」「鴉はニャーと鳴かない」などをどんどんつなげていっても、聞いていて面白くないだけでそれほど切迫感を与えるものではない。

 しかし「本当の愛」とか「本当の絆」云々について述べるとき、大抵人は「本当のX」を志向すべきだと考えており、ここには単に知識の次元のみならず、そう振舞うよう要請する規範についての意識が強く働く。そんななか、「本当のXとは少なくともAではない」→「本当のXがあるならば少なくともA’なんてしない」がどんどん増殖していったらどうなってしまうのだろう。本当の愛があるならば付き合って何日か忘れないし、プレゼントは欠かさないし、ほかの異性に接近しないしetc. 本当の愛が持つ性質が何者かは鴉のときほど自明ではないはずなのに、アドホックかつかなりその場の恣意性でAが決められていくならば、愛をめぐる関係はがんじがらめになってしまうのではないだろうか。そしてそのような否定形の連言で構成される「本当の愛」というのはまるで各状況に適切に反応することで出来上がっているようで、そもそも愛が基づくはずの自由をもはや損なっているような気さえする。