個室にて

Ars Cruenta

コスプレと一張羅のはざまで

 私のある私服が少し特殊なものであるせいか、それほど色がどぎつかったりどうこうするわけでもないのだが、稀に「コスプレですか」と聞かれることがある。なんて失礼なことだろうと思い、「いいえ、私服です、もう10年以上着ています」と答えるのだが、ふと思うとコスプレと私服の違いというのはどこに存するのだろう。「私服」というのは「仕事服」に対する概念だと思うが、要はスーツやユニフォームと違い、人が普段の生活で着ているものなのだろう。これに対しコスプレは何らかのコスチュームを着ているだけであって、別に仕事関係なく毎日のようにメイド服を着てメイドのように振舞うこともできるわけだ。そうだとしたら、10年以上着ているからと言って「これはコスプレではなく私服だ」と言うことにどれほどの意味があるのだろう。

 この区別をするべき理由の「尖った」答えの一つになるのかなと思うのが、私服のなかに「一張羅」という考え方を持ち出すことではないか。一着しかなくて替えのきかない一着を自分は着ている。自分はそれを恥ずかしげもなく公式の場でも着ていくし、晴れの舞台でも着ていく。これに対し、コスプレイヤーは普段からいろいろのコスプレが可能であるものの、大学の卒業式でもメイド服を着てくるだろうか。コスプレではなくとも、たとえばゴスロリファッションが好きな人というのがいる。彼らはゴスロリを着てくるだろうか。多くの人はそうしないというのが実情ではないだろうか。なかには京大のようにコスプレをすることで卒業式を盛り上げようとする輩もいるだろうが、そういう連中は別に普段からそのコスプレをして大学にいるわけではない。「コスプレ」は遊びの次元では可能だが、いざとなった場面で不可能なのである。これに対し一張羅はそれがどんなものでも、その人の大事な場面でも真価を発揮する。

 何もこの話は、大学の卒業式でも普段と変わらぬコスプレをする奴がいたら偉いという話でも、ゴスロリは私服になりえないという話でもない。一張羅からもう少し緩くして、私服とコスプレの間で結局のところ問題となるのは、自分がスタイルとしてその服と対峙できるかという話なのではないか。前に宝飾品を身に着けることについて話したことと根っこは一緒で、いろんな種類の華美な服をそろえたところで、それだけではただの匿名のコスプレになってしまう。以前、久々に大阪の日本橋を訪れると、たくさんのメイド服を着た客引きに出会った。彼女たちがどういう目的でいる人間かなど問うまでもないし、それがユニフォーム兼コスプレであることもだれも疑わない。しかし本当にメイドになった人はきっと、自分の服装を「コスプレ」と言わず、「一張羅」までいかずとも自分にとって大事な服だと言うだろう。またこっちも、初対面では難しいだろうが、何度もその人の挙動を見ることでそうした意志を感じ取れるようになるだろう。うまく言えないが、本当に大事なのは何度も同じ服を着続けることで、自分と服を癒合させていくその過程なのではないだろうか。それなしにいろんな珍妙な服を着ているから、その人は「コスプレ的」と評価されてしまうのではないだろうか。例えば同じキャラのコスプレを5年も続けてみればいい。そうすればその人は立派な「コスプレイヤー」ではなく「その人」になるのではないか。そんなことを思いながら、次の大事な機会にどれくらい社会的に許されるのだろうと考えあぐねている自分もいるのであった。