個室にて

Ars Cruenta

二人の幸福

 「吉本新喜劇」などで、よく次のような筋書きの話が出てくる。ヒロインが困るような状況を男の仲間たちが用意して、男がそれをうまく打破することでヒロインとねんごろになろうという計画をたてる。たとえば借金で困っているところに偽物のヤクザが現れて、それを男がかっこよく撃退することでヒロインは男に惚れこむというわけである。もっとも新喜劇の場合、この手の計画がうまくいくことはないから話が盛り上がるのだろうが、こういう策略はよくあるような気がする。

 ここで問題にしたいのは、このような計画がうまくいくかどうかではなく、そもそもこの話はねんごろになりたい相手が不幸であることを前提にしなくては成り立たないということである。童話のようなスタイルで考えると、早い話次のようなことになる。「白馬の王子様は、お姫様が不幸のどん底に落ちながら、それでもギリギリ自分が助けられる範囲で苦しむ瞬間を待っていたのです。王子のねらい通りお姫様は艱難辛苦のただなかに放り投げられ、今度は王子の腕の中におさまりました。」こう言っては、顰蹙を買うだろう。それでもこういう物語が道徳的な批判をたくさん受けておとりつぶしにならない程度に延々再生産されるのは、きっと何らかの事情があるのだと思う。

 つまるところ私たちはしばしば相手の幸福よりも自分の幸福を優先してしまうし、それがゲスいことだと分かっていても一定の共感を呼ぶということなのか。相手のことが好きでも相手のことを傷つけることで自分の幸福を確保してしまうというのは、好意が必ずしも愛と同義ではない身近な証拠なのではないか。それは、女を抱きたいとか恋人がほしい、というような直情的で普通はあんまり褒められたものじゃないとされる欲望の陰で、案外見逃されているような気がする。