個室にて

Ars Cruenta

関係修復の技術

 イギリスで文学者や詩人らが集まるサークルが作られるときには、しばしば「会則」のようなものが設定される。別にこういう会則をたくさん読んでいるわけではないのだが、たまにこういう会則のなかに人を笑い飛ばすルールがあるというのは興味深いと思う。たとえば会のなかでうまいことを言ってほかの論敵に付け入るスキを見せない人がいたら会の最後にその人を笑い飛ばす、といった具合である(これはアメリカの植民地のクラブでの会則だったか)。

 最初にこういう会則を見たときに、なんとなくイギリスっぽいなと思ったものの、この会則がどれほど大事なものかはいまいちピンとこなかった。しかし今にして思えば、こういうことなんじゃないかと思う。会のなかでとりわけうまく話す人がいて、その人ばかりが自己主張をしていては会全体が次第にその人の独壇場になってしまう。講演会ならともかく、社交のための空間が個人の独壇場になってしまっては次第に社交の効用は薄くなってしまうだろう。だからこそ会の最後にうまくいった人を相応の機知をもって笑い飛ばすことで、会の空間に一種の和をもたらし、会における個人個人のバランスを取り戻しているのではないか。そう考えると、この会則はとかく乱れがちなパワーバランスを一種の平衡状態に持ち込むための知恵に思えてくる。

 イギリスに対して私が持つイメージのひとつとして、「覆水盆に返らず、となる前に繋ぎとめる」、もっと言えば「覆水盆に返らず、となっても盆に水があるように振舞う」というものがある。保守主義の裏返しかもしれないが、もう修復できないくらい関係が痛めつけられる前にバランスを取ろうとするし、元の鞘に収まることができなくなっても代替手段によって関係を何とか保とうとする議論が散見されるように思われるのだ。この関係修復の技術のようなものが、結構大事なんじゃないか。

 イギリスの話ばかりしていたが、同じ人間である以上、技術そのものは日本でも同じように適用できるだろう。ひどく傷つけあったあとであっても、同じ意見に至らなくても、きっと何食わぬ顔をしてまたお互いの顔を見て一緒に行為する関係になることは出来るはずだ。そのような一つの例が『むらと原発』なのではないかと思う。なんでもそうだが、廃棄するのは簡単だ。自分にとって必要のない人間を消していけば、残るのは大切な人たちだけになるに違いない。でも私には、それが魅力的な選択肢だとは思えない。