個室にて

Ars Cruenta

明日のごちそうを作るつもりで

 我が家の人間は、みな揃って食い意地が張っている。趣味は食べることだから、毎日夕食に頭を悩ませ、ついつい馬鹿みたいな量をつくりがちだ。たった三人しかいないのに天ぷらはうずたかく大皿二皿くらい上げてしまうし、たこ焼きも市販のたこ焼き粉ひとふくろをすべて作ってしまう(メーカーによるとたこ焼き100個分!)。カレーやシチューも、具沢山にして当たり前のように一箱分たっぷりと作り、食べたいだけ食べる。食べるものがたくさんあるのについついおいしそうなブリがあると刺身にしてしまうし、鍋は〆まで辿り着けないほど大量の具材が入ることもざらだ。足りないよりはお腹いっぱいしっかり食べられるほうが良い。ただ、そんなことをしていると当然、全部が全部食べきれないということがしばしば起こる。

 人に食卓の写真を見せることはあまりないのだが、こういう「食べきれない量」に対しあまり人々は良い印象を持っていないのかもしれない。というのも、食べきれず残ってしまったものを「残りもの」とか、場合によると「余りもの」と言う人がたくさんいるからだ。「残りもの」は文字通りの表現だが、「余りもの」は「本来の食事で食べられず余ったもの」、本当は食べられるべきだったのにそうじゃないものを指すようなイメージがある。

 食べきれなかったご飯に悪いイメージがついて回るのは、「次の日も同じものを食べないといけない」という考えが背景にあるのかもしれない。確かに何にしたって(カレーやおでんは例外だろうか)、一日目より二日目の方がクオリティが劣るように見える。刺身はちゃんと処理をしないと痛むし、アツアツの唐揚げより二日目の冷めた唐揚げが好きという人は確かに少ないだろう。しかし、だからこそ二日目には一日目ならまずやらなさそうなことをするという楽しみがある。買った刺身をいきなり漬けにすることは勿体ないかもしれないが、二日目なら抵抗はなくなるし、わざわざ天ぷらうどんのために天ぷらを揚げることはまずないが、二日目なら「この天ぷら、うどんに入れてみようか」となる。今日食べられなかったものは、明日のお昼ご飯になる材料なのだ。つまり今日のご飯を用意しているうちに、たまたま明日のごちそうの下ごしらえができている、私はそう考えたほうがよほど気分が良いのではないかと思う。

 お鍋で〆まで辿り着けなかったら、そのスープやなかに残った具材は極上の明日のためのスープなのだ。うどんやラーメンを入れるだけで、お昼のごちそうとなる。それと同じように、揚げすぎた揚げ物は翌日のうどんのトッピングやどんぶりに、食べきれなかったお刺身は漬け丼に、カレーやシチューはオムライスやカレーそばのベースに、食べきれなかった焼き魚は翌日混ぜご飯の主役に、と、本当にちょっとした工夫一つで昨夜の主役はお色直しをしてお昼の主役に再び立ち現れてくる。

 それでもそのひと工夫が大変だと思う人は、とりあえずなんでも「リメイク」とつけて検索をかけるのもよいが、「一日目の料理名」+「丼」「うどん」で検索をかけるのはどうだろう。ご飯もうどんも、びっくりするほど何でもかんでも受け入れてくれる。「リメイク」だと昼には結構手間のかかる料理レシピも混じって来るが、丼やうどんは割と簡単に作れる場合が多い。なんとあのたこ焼きだって、「うどん」をつけて調べれば「たこ焼きうどん」なるものがたくさん出てくるのだ! 

一日目のたこ焼きも・・・

なんとうどんのトッピングにする「たこ焼きうどん」なるレシピがたくさん出てくる