個室にて

Ars Cruenta

数を数える

 子供のころは学校のなかでやっていたことでも、大人になると恐ろしいほどやらなくなることというものがたくさんある。一生懸命走る機会も少なくなるし、人付き合いも人によっては大幅に減る。勉強もその一つだろうが、いわゆる「国語力」とか「科学的思考」なんてものは場面場面で必要になってくる。保険選びの際にあれこれ文書を読み比べるときに国語力は必要になるし、リモコンがきかないときにテレビの主電源は切れていないか、電池は入っているかと確認することは単純ではあるけれど、一種の科学的な思考力だ。だけどこれらの能力以上に最近ますます使わなくなっているものがあるような気がする――ものすごく簡単な計算をする能力だ。

 私がまだ子供のころは、野菜一つにしたって八百屋に行けば言われた額に対応する現金を計算して出すのがまだまだ当たり前だったように思う。たとえば850円かかると言われたら、1,000円出して150円のおつりだとか、百円玉が欲しければ1,050円出そうかなどと計算していたはずだ。しかし最近はキャッシュレス決済が当たり前のようになった。もちろん早くて便利なのだが、お金を使う側が計算をする必要はすっかりなくなってしまった。月ごとの合計金額を計算する必要もなく、クレジット決済なら(明細さえ整えば)即座に使った合計金額を確認できるようになった。

 この傾向をさらに強めたのが、おそらくコロナのころに広まった自動釣銭機だったのだと思う。たいていまともな人は自分で必要な金額を勘定して必要なだけの硬貨を入れるものだが、じゃらじゃらと持ってる小銭をぶち込む輩も多い。スーパーなどで「入れる硬貨は20枚まで」などと書かれているのはおそらく法律の誤解なのだが(同一金種20枚以上なら受取りを拒否できる、が正しかったはずだ)、わざわざそういう張り紙をしている所が多いのは、そういう人が多い証なのだろう。そりゃ自動釣銭機と言っても、中にいれるお金の量には限界がある。早い話、一円玉500枚でも持ってこられようものなら入りきらなくなってしまうに違いない。でもそういうことをする人間には計算力以前に、そんな想像力もないのだろう。

 こんな話をすると「テレビができたときに一億総白痴化なんて言ってるのと同じじゃないか」と世を嘆く誇張のように思われるかもしれないが、実際に簡単な計算をするという作業はリハビリテーションの施設などでも取り入れられている、頭の体操のはずなのだ。それが生活の場面から徐々に姿を消していくにつれ、僕たちの頭の健康に何か悪い影響が起こらないかと不安に思う。私はもっぱら未だに現金派なので、ない頭使ってちゃんと計算していこうと思う。

 ちなみに私自身の経験から言えば、人は足し算より引き算の方が苦手だ。だから、なるべく現金でのやり取りをスマートに済まそうと思えば、「5を越えたら5がつく金額を足す」「端数がなければ一個上の位に1を足す」の二つを心がけるとうまくいく。たとえば632円のお会計なら、6>5だから6+5=11と考えて1132円を出せば500円玉一枚で済むし、十円以下の端数がなければ十のうえの百に1足して1200円出せば568円返って来る。665円のお会計なら、60>50だから110円、600>500だから1100円として1215円出せば550円のお釣りとなるし、端数がなければ一の位の一個上の十の位に1足して1220円出せば555円返ってくる。最初はややこしいが、慣れると意外と簡単なテクニックだ。