個室にて

Ars Cruenta

決意表明

 今日1月28日は私の誕生日だ。昔はこの日付を恨んだこともある。というのも、ちょうど28日が土日に重なると、この日は昔からなぜか漢検や英検といった資格試験とかぶることが非常に多かったのだ。(受けないけど)今年の1月のTOEIC試験だって、1月28日の日曜日なのだ。子供のころはどうしてもこういう資格試験を学校で受けさせられたりすることがあって、後で外食があってもどことなく気が塞いだのを覚えている。今だと盛大に誕生日を祝うなんてこともまずなくなったが、この誕生日でいよいよ30になるということもあり、今年はちょっとばかし羽目を外して楽しみたいかなと思っている。

 30の区切り、実は私にとってもう一つ大事な区切りでもある。以前このブログで少し書いたが、もう少しだけ書くと、私は某大学で博士後期課程まで終えて博士号をとったいわゆる「研究者」だ。しかし、普通の博士とは決定的に違う点が一つある――それは、最後の一年に学内の別の学生からストーカー行為に遭い、その結果として図書館に通うこともなく大学への立ち入りを一切しないまま博士論文を書き上げたということだ。大学が提供しうる教育と研究の機会を奪われたまま博士課程を終えた私は、首の皮一枚繋がって大学に籍を残した。しかし今度はストーカー加害者が根も葉もない嘘を吹聴してまわり、私をありもしないストーカー加害者に仕立て上げてきた。警察は一度二度私から事情を聞いて私が何もしていないことを納得してくれたが、何の事実も検めないまま人権委員会の長を名乗る人間は脅迫まがいのことを言いながら私が大学に行ける日を週に一度に制限してきた。業績を一つ潰されかけた私は抗議をしても聞き入れてもらえず、遂に別のハラスメント対応の窓口に相談した。それが昨年の3月。少しはこれで守ってもらえるだろうと思ったが、それから先が酷かった。

 誰もが「お辛いでしょう」なんて社交辞令を述べて、人を代え場所を変え「ヒアリング」を行った。しかし9か月経っても彼らは何もしてくれず、「委員会」や「聞き取り」を開いては別の人が同じようなことを聞いてきて、全く何の進展もしなかった。その間に別の研究者が学会参加を制限するようなメールを送り付けてくるという更なる加害行為を受け、驚くべきことにその研究者は私の主張を聞いたり事実を検めることは時間がないから不要だとまで言ってきたのだった。そうこうしているうちにストーカー被害を受けたころから私は今日にいたるまでほぼ一日一度は食事を吐き戻すほどのストレス性胃腸炎に苦しみ続け、精神的に弱っていった。大元の加害者は何の調査もされることなく好き放題に振舞い、途中から介入してきた連中は私に言葉を尽くして説明することすらできないクソ虫で、さらにこちらの話を聞くと言ってきた連中は結局誰も何もしてくれなかった。

 心底、この業界が情けなくなってしまった。私は昔から、学者というのはそれぞれ使う道具や言葉は違うにせよ、真理のために(真理にどうアプローチできると考えるか、そもそもそんなものがあるのかも人や分野によって違うのだが)言葉を尽くす仕事だと思い続けてきた。だから言葉を尽くして証拠を出してそれを検めてもらえれば、きちんと耳をそばだてて彼らが正しいと思う行動をとってくれるはずだと信じていた。しかし事実はまるで逆で、「人権委員会」を名乗る連中から勝手に介入してきた倫理学者に至るまで、どいつもこいつも何の事実も検めなければ自分のやったことの説明責任を果たさない。「あなたを助けますよ」と言ってきた連中はどいつもこいつも、傷ついていると訴えている人を9か月放置して、委員会を開くことで「ことが進んでいる」と本気で思っている。あまりに人を馬鹿にしている。そう思ったとき、どこかで何かの糸が切れた。

 無能で不誠実な人間にこれ以上何を言ってもしょうがない。

 こんな奴らばかりなら、もうこの大学という業界を出ていこう。

 今のこの大学は、食べられないカビのついたチーズのようなものだ。チーズの中は極上の資料群で美味しくても、その外側に食えないカビとなる人間がいっぱいついているようでは宝の持ち腐れだ。一生懸命カビと戦いながらチーズを得ることを選ぶ人もいるだろうが、もう疲れ果ててしまった。「自由の学風」を標榜する大学が、ストーカー加害者の自由のために被害者の心身を破壊し人権を蹂躙しているようなところなのだ。それならもう私はカビの生えたチーズをごみ箱に捨ててもっと自由に生きればよい。

 ちょっと早いけど、今日から第二の人生だ。本当はいきなりさっぱり過去を断ち切れるなんてことないのだけど、どこかで線を引くとしたらきっと今なのだ。第二の人生だからと言って、研究者をやめるわけではない。偉い学者先生が空理空論振り回すのと違って、私は自分の思考とともに生きて、しっかり傷ついてしっかり人の傷と向き合って生きていこう。それが私なりの血染めの哲学であり、研究そのものなのだ。小難しい研究計画書を書くこともないし、機会がなければ論文を書くことさえ今後あるか分からない。でも私は研究を通して生きていき、自分のやることに責任を持つし、仲間と助け合って生きていく。そして自分のやったことに向き合おうともしない偉い学者先生どもを笑いながら睨みつけてやろう。「どいつもこいつも大概やってくれたなあ」なんて言いながら、誰よりも、無反省な悪党にとって怖くて、善人にとって可愛く優しい人間になってやろう。

 保身と利権のためにクソ虫の仲間に成り下がるくらいなら、生まれ変わってやるさ。

 そんなこんなで風纏う血染めの赤鴉・死神ちゃんを今後ともよろしく。