個室にて

Ars Cruenta

「帳尻合わせ」の論理

 「Lost Judgment」に登場する、相馬という男が好きだ。別に良い男と言うわけではない。というか、相当ヤバい奴で、平気で人を刺すし、物語中の重要人物も殺してしまう。その正体は半グレのリーダーでもなくもっと別のもので、最終章までキーパーソンになり続けている。悪役に思い入れがあるというとき、私たちは別にその人の悪に思い入れがなくてもいい。どれだけ悪いことをしていようと、その人物の立居振舞や考え方のどこかに共感し、好意を抱いているのだろう。上のような立居振舞のせいで相馬は「サイコパス」などと書かれていたりするけど、私の場合、なんとなく考え方の次元で彼に親近感を覚えているような気がする。

 それは「帳尻合わせ」が共通して持つある種の論理なのだと思う。不足が出ようと過多が出ようと、帳尻合わせは何らかの手段を用いて帳尻を合わせていかないといけない。そのとき、何が必要だろう。帳尻を合わせるためにいろいろなことを調べる能力、そのうえで多少汚い手を使ってでも実際に帳尻を合わせる能力。それだけだろうか。いや、それだけ帳尻を合わせようとするならば帳尻合わせを動機づける強力な目的意識が必要なのではないだろうか。「まあ、10円程度ならよいか」などと言っているようなら、その「10円」という基準はどんどん緩んでいくに違いない。

 相馬にとってその目的とは、「汚れ仕事をして日本をより良くすること」だった。自らの手を血に染めて帳尻を合わせるのは、「日本をより良くする」という理念のためにある。この理念は帳尻合わせにとって、自分の悪行の言い訳ではない。むしろ彼ははっきりと、あまりにも潔く、重要人物を殺したことについて「正義を実感しながら殺した」と言い切っている。

 もちろん、一介の帳尻合わせにとって、目的はそんな大きなものではないし、それに対する手段も殺人なんて方法は滅多なことではとらないだろう(というか、とらないだろう)。しかし世の小さな帳尻合わせたちは、どこかで自分たちのやっていることにある種の強力な目的意識を持ち、それゆえに帳尻を合わせ続けているんじゃないだろうか。帳尻合わせは血を流さないかもしれないが、それぞれの職種においては「汚れ仕事」に近い側面を持っている。なればこそ、ある種の理念がその人を衝き動かすのではないだろうか。