個室にて

Ars Cruenta

絵本と涙

 昨日、えいやと思い切って広島県尾道を訪れた。いろいろやりたいことはあったのだが、そのひとつが尾道市立美術館に赴くことだった。あの、黒猫と警備員のバトルで有名な美術館だ。恋人を失って悲嘆に暮れていたということもあり、やや自傷行為気味にすぐちかくにあった恋人の聖地で抱き合う猫の置物と自撮りをしたあと、会期中に見ておきたかった「隙あらば猫」展に向かった。絵本作家などで知られる町田尚子さんの原画展である。

 結論から言えば、ものすごくよい展示だった。ボリュームもあって原画以前のラフや、絵本を描くために用意された写真、そして本人への追加取材も充実していて、描きおろしの絵も6枚くらい用意されている(ほとんどは例の猫たちに関するもので、思わずニヤッとした)。ミュージアムショップでは例によって素敵なグッズがあって、ちょっと予算オーバーしてしまった。前の人なんて1万円使ってたぞ、なんて。

 ただ今回したためたいのはこの展示の素晴らしさだけでなくて、美術を見るときのある種の感受性だったりする。何でもない絵本の絵。言ってしまえば、その辺の図書館や本屋さんで買えばいつでも見られる絵。それが原画として眼前にきたとき、町田さんの絵には(ほかの絵描きさんでもそうなのだろうが)何とも言えない凄味がある。感動的なシーンを描いた場面でもなければ、技巧のことは門外漢だ。それでも引き込まれる何かがあって、気づけば目に涙が溜まっていた。

 やはり観光客が多いのか、千光寺や展望台のついでのように来ている人も多かった。別にそういう人たちの見方を否定するつもりは毛頭ない。すたすたと見ながら「あ、これ面白い~」と言いながら展示室を出ていく人もいた。それでも、ざっくりでも、絵に触れることが大事なのだと思う。ただその時の自分は何か感極まっていて、気づけば同じ絵をなめるように見ながら、鼻をすすって泣いていた。

 美術館に行くこと自体、思えば久しぶりだったと思う。コロナに加えてストーカー被害を受けて、ずっとこの数年、そういうものを見ていなかった。別に自分が感受性のある人間だとアピールしたいわけではない。むしろ自分は絵を見て泣くことなんてなかったのだ。でも泣いた。涙の理由は分からない。でも、ずっと硬直して死にかけていたものが蘇ったような気がする。きっと私のように、いや私以上に暗く狭い牢獄で苦しんでいる人はたくさんいるだろう。そんな人に必要なのは何か。

 戦時中、歌がある種の癒しになったという話は幾つか聞いたことがある。芸術は人を感動させる力がある。感受性を生き返らせて、人間を受動的な機械とは違う何かにする力がある。そんなことを坂道の町でふと思った。