個室にて

Ars Cruenta

一緒に食べる代わりに

 自分が食べて美味しかったものを、ときどき人にあげることがある。そんな経験は割かし多くの人が持っているんじゃないだろうか。人様に差し上げるものなんだから、よほどの王道でもない限り下手なものを渡すのは気が引ける。じゃあ何を選べばいいかというと、自分がバカ舌ではないとちょっとばかり信じたうえで、自分が食べておいしかったものを贈れば相手も喜んでくれるんじゃないか、というわけだ。実際、こういう基準で穏当に好き嫌いの少なそうなお菓子を贈れば、自分が美味しいと思ったものはだいたい相手もおいしいと思ってくれることが多いし、少なくとも大きく外れて「げぇっ」という顔をされることはあんまりない。

 ただ、食べ物を人に贈るという行為は、そういう保守的な思惑だけでできているのだろうか、とふと思う出来事が昨日あった。

 たまに寄るクラフトビール醸造所直営のお店があるのだが、そこで昔から美味しいと思っていたビールがある。とある友人とそこでビールでも飲めたらなあと思っていたのだが、残念ながら先方が多忙で一緒に飲むことは当面できそうにない。仕事帰りのバスで朦朧としながらそのことを想っているとふと、名案のように奇妙な考えが浮かんできたのだ。

 私はこれから、あのお店であのビールを飲む。あのビールは上の百貨店で瓶入りで売っている。だから私はそのビールを買っていって、あの人に贈ろう。そうすれば場所は違うけど(ついでに言うと樽から注ぐのと瓶ビールはやっぱり違うだろうけど)、私とあの人は同じものを「一緒に」飲めるはずだ。

 順番は前後してしまったが、私は実際にビールを買って、ビールを飲んだ。よく考えたら前にも飲んだのだから、わざわざ疲れ切ってグズグズの今飲まなくても「一緒に」飲むことは出来たはずなのだが、その時の私は「一緒に」感をなんとか演出したくて仕方なかったのかもしれない。このビールを贈って、私が飲んで美味しいと思ったビールだよ、あなたも飲んで感想聞かせてねと言う。そのために禊のように私はあのビールを喉に流し込んだのだ。まだ仕事は残っていたのだが、もちろん今日もうまかった。

 思えば「ひとり焼肉」だとか「おひとりさま」という言葉が持て囃されるようになったのは、そもそもその食事が複数人でとられるものだという想定があってのことなのだろう。一緒に人と食べるご飯は、食事の味以外でも刺激的で楽しい。でも一人でご飯を食べているからと言って、その刺激のすべてが失われたことになるのだろうか。

 きっと私は買っていった一本のビールに何かを託したのだ。私はカウンターで一人でビールを飲んだけど、私は確かに「一緒に」ビールを飲むのだ。ちょっとした時空を超えて、私は隣で一緒につまみを食べる楽しさを共有し、お互いの思いを共有できることを期待しているのだ。

 最初の贈り物の話に戻ろう。会社のドライな贈り物ならまだしも、誰かに何か食べ物を贈るとき、私たちはそこまで計算ずくじゃないんじゃないか。たとえ自分が贈る定番の一品でも、心の奥底ではやっぱり思ってるんじゃないか――「あなたと一緒にこれを食べたい」と。