個室にて

Ars Cruenta

The Cutting Edge of my Knife

※この文書はとある企画の一環で書かれたものですが、日記風で冗長です。

※最初はどうしても暗い話ですが最後はちょっぴりでも明るくします。

はじまり(2023年1月1日)

 2023年1月1日の昼食後、私はふらふらと、とあるJRの駅に向かっていた。ふらふらと、とはいえ、昼から正月祝いの酒を飲んでややふわふわした気持ちで歩いていただけで、行き先自体は決まっていた。駅の商業施設にある回転寿司だ。

 前日の大晦日まではあれやこれやと仕事、それから遅めの食事をとって適当な初詣をした。コロナはそこそこマシになったとはいえ、先立つものがなければ盛大に祝いもできないのだろう。しばらく前までは豚汁に酒をと大判振舞していた神社はそこそこ静かなもので、毎年少しずつ小さくなるカップに酒を注いでもらったものを飲みながら、家族の前では笑いつつ暗澹たる気持ちで寒空に突っ立っていた。

 寿司を食いに行ったからと言って、たとえば、正月の飯に不満があったわけではない。ただでさえ食わねば死ぬ勢いで食事に傾倒している家族だから、年末も年始も素晴らしい御馳走を食べていた。年末は淡路の南にある福良の漁師からフグを取り寄せ食べたし、年始は新潟・三条の料理屋から一人前用のおせちを取り寄せて、年始の御馳走としたはずだった。それでも自分が不意に家を抜け出し年始早々奇妙な散歩を始めたのは、家族と離れてひとりで何かを飲んで食いたくなったからだった。

 何がそんなに哀しくてそんなことを思いだしたのか。ここで私の事情を何もご存じない人に必要最小限の状況説明を問わず語りしておこう。私は2年半ほど前に職場の人間からストーカー被害に遭い、自分だけでなく当時周囲にいた人たちほとんどが巻き添えを食らい警察沙汰となった。これ以上誰も巻き込むまいと思った私は職場への立ち入りを警察と職場関係者から禁止された状態で仕事をして、闇に隠れたまま一時代を終えた。その後いちおう同じ組織にまだ所属しているものの、2022年冬の入り口、今度は加害者の嫌がらせ行為に複数の職場関係者が加担してきた。この文章をしたためている今も未だに被害は続いており、これ以上は具体的に書けないのだが、想像してみてほしい。自分も加害行為に遭って私が闇に隠れていたことを知る人たちが、私がいまだ酷い嫌がらせを受けていると知ったらどう思うだろう。怒り以前に、大変哀しむに違いない。そして彼らが関わってきたら、話はもっとややこしく大事になってしまうだろう。私はこの嫌がらせをごく一部の人以外には決して話さないことを誓い、この正月を迎えたのだ。

 (ちなみに余談だが、3月にたまらなくなって職場に被害を相談して以降、彼らは今日にいたるまでずるずる私から話を聞くだけで、何の事実も検めてもいなければ、情報を小出しにして正式に申し立てを受理することさえしていない。加害者たちは好き放題今日も過ごしているというのだから、情けない人間が決して一人や二人ではなく組織の体質なのがよく分かる。こんなことをこんな仕方で書くようになったのも、この一年で情けない人間を見てきて色々心境の変化があったからだが、それは今回扱わないことにしよう。)

 閑話休題。そういうわけで私には憂さ晴らしが必要だった。憂さ晴らしという言葉が不適切なら、チャージが必要だった。泣きそうな心を抱えて食うクエやカニやのどぐろは、それでもうまく、色々な意味で、旅行でもないのに昼食と夕食の合間に食べるものではなかった。家族に黙ってしれっとこんなものを食べに行くのも、昼と夜の間に酒を入れてこれだけ豪遊するのも、そして何より憂さ晴らし(or チャージ)のために外食をするのも、これが実は初めてだった。この初っ端から眉を顰めたくなるようなお話の続きを先取りするならば、私の2023年は結局このどうしようもない「初めて」の諸展開であり、とにかく今年はよく飲んでよく食べたし、その過程で良くも悪くもたくさんの「初めて」を伴った。それは一方で浪費と健康の危険と危なっかしい正義感に繋がり、他方で酒に頼らざるを得ないヤクザ者の自分が「道徳的に生きるにはどうすればいいか」を考える契機と、自分の今後に対する(少しは)明るい展望に繋がっていくことになる。

正月に一人で食う寿司の一例。ぜんぶで10皿食べたようだ。

 どうしようもない酒飲みの一年が始まる。どうせ書くんだから人に迷惑かけない程度に赤裸々に行こう。

肝臓とケーキと野球と(1月半ば~3月11日)

 酒飲みの一年を綴るのに、早速その障害となる話から書き始めるのは奇妙かもしれない。ただ私が正月に一人で寿司をかっ食らって数週間、返ってきた健康診断の数字は思っていたよりもずっとまずいものだった。もともと酒を飲み始める以前から数字が思わしくない所があったのだが、そのなかでも飲酒の影響をダイレクトに受ける肝臓の数字はとんでもないことになっていた。それこそ、「このままじゃ死ぬから早く何とかしろ」と保険組合からごついハガキが届くくらい悪かった。

 私自身はあまり気にしていなかったのだが、家族は自分たちこそ検査を受けないくせにえらくあれこれと言ってきた。まあ私も人の検査結果を見せられてとんでもない数字が書かれていたら、それくらいは心配するのかもしれないが、上の事情であまり頼れる人がいない自分にとって、病院で禁酒を言い渡されることはゲームや映画で絶望的な状況のなか強力な味方が一人戦線離脱するような感さえあった。とはいえ何もしないわけにもいかない。私は家族に週二日の休肝日をとって、三月に検査を受けることを約束した。そこでの検査結果と医師の言葉で、今後の方針を決めようということにした。

 暗いニュースの裏で明るい出来事もあった。数少ない、そして最近会うようになったばかりの友人たちが、サプライズで誕生日を祝ってくれたのだ。友人に小さなホールケーキを出してきてもらった時は、彼らの優しさに思わず涙腺が潤んだのを覚えている。ところが彼らと再び遊びに行ったとき、ちょっとした事件が起きた。とある沖縄料理店に入ったとき、そこにとある球団の野球ファンが居合わせた。そこで彼らが大声で球団の歌を歌ったり、友人たちにちょっかいをかけ始めたりしたのだ。

沖縄料理店でないとなかなか食べられないヤギ刺が好き。

いろいろ悪い条件が重なっていた。そもそも私はとある事情で野球というスポーツ自体があまり好きではない。そこにたまたま弾き語りで流れた「涙そうそう」が私に、昔起きた哀しい事件を思い起こさせていた。しかも友人たちと一緒に食べに来ているのにその友人たちにちょっかいをかけられるのはいい気持ちがしなかったし、沖縄民謡を楽しむ場で大声の応援歌を聞かされるのも他の客の迷惑だろうし不愉快だった。そしてそこにさらに個人的な事情をぶち込むならば、この日は私の検査結果が出る前最後の友人との会食だった。今後の流れ次第では、もう私は彼らとお酒が飲めなくなるかもしれなかったのだ。

 私は彼らに自分の怒りを伝えた。今思えば、お互いそれなりに酔っていたから、喧嘩になってもおかしくなかった。結局睨み合ったりお互い小さく低い声で相手を非難し合って、此方が先に店を出た。ただ私の事情や考えを聞かされず、それ故にこちらの思いをまるで知らない友人たちからすれば、私の行動は酔っぱらいの異様な行動に映ったのだろう、と気づいたのはしばらくしてからだった。数日して、大変後悔したし、今もそれなりに後悔している。

 自分が仲間もろともこっぴどい目にあわされて以来、私は一年以上ずっと闇に隠れることを優先してきた。それはこれ以上身内を傷つけられないための防衛策だったのだが、その陰で私はずっと、また何か酷いことが起こったときに自分が何をすべきかを自分なりに考え続けていた。それこそ、最悪のシチュエーションで自分が部下や同僚を守るために武力に手を伸ばすことさえ。幾晩も、本当にナイフを片手に切っ先を見つめながら酒を飲む日が続いていたこともある。ただそれがこんなにも簡単に、自分でも身勝手だと思えるような正義心に変わってしまうのだということをまざまざと見せつけられたような気分だった。実はこの記事を書いている数日前までこの友人には会うことがなかったし、今でも許されたなんて思ってはいない。

 こんなエピソードを語るともう死ぬまで禁酒でもしてろと言いたい向きもあるかもしれないが、検査の結果、医師からは飲酒自体を止められることはなかった。そして私は、その日もジンをやめなかった。

旅人になる(3月12日~3月27日)

 失敗したとはいえ、人に迷惑をかけたばかりでもない。建設的な酒飲み(?)の道も、もちろん模索されていた。そのひとつが、かねてより趣味だった町歩きに飲食店での飲みを組み合わせる当たり前のような行為で、当たり前でありつつこれを人を引き連れてやるというのは意外と難しい。学生時代、色んな人を連れて飲みに行ったことはあるが、事前に相当の時間をリサーチにあてて、そもそも安全な店か、そこそこのクオリティがある店かなどはきちんと確認するようにしていた。自分一人がやけどを負うだけならいいが、一緒に連れていく人にまで迷惑をかけていられないからだ。ただひょんなことから家族と他所の商店街をうろうろするのも楽しいよね、ということになり、何も決めずに家族で神戸の新湊に遊びに行くことになった。

花りんの串カツ。そうそう、こういうのがいいんだよと思わせてくれるお店。

 いろんなお店をほっつき歩いたのだが、第一の感想は「意外と何も調べずとも楽しく過ごせるじゃん」だった。家族だからそれなりに気心知れたところはあるとはいえ、昼から訳の分からん(失礼)立ち飲みでつまみを食べて串カツをかっくらい、夕食のブエノチキンと刺身という異色の組み合わせを買って帰る。

 それから約二週間後、名古屋に出張に出ることになっていた。本当は2泊でいいのだが観光もかねて3泊(全部自腹だから悪いことはしてないよ!)宿をとり、現地で世話になっている人と落ち合った。仕事もそこそこに準備していた名古屋飯マップにのっとって名古屋飯をたらふく食べた。写真に残っているだけでも、カレーきしめんにはじまり、味噌おでん、エビフライサンド、味仙の台湾ラーメン、宮きしめんなどなど、有名どころはかなり食べたと言っていいだろう。

 ただ、楽しい旅行で終わったわけでもない。2泊目の夜、散々あれこれ食べたあと私は世話になっている人にバーでごちそうになり、まだ話足りないとコンビニでニッカのウイスキーを買ってホテルの部屋であおるように飲んでいた。そのとき不意に、先に挙げた被害をはじめてそこそこ距離の近い人に打ち明けたのだった。今思っても、かなり自分はおかしくなっていたのだと思う。泣き崩れるように被害を訴え、その後何度も「こんな時にこんなこと言ってごめんなさい」とホテルの床に頭をつけて謝っていたのを覚えている。結局その晩は部屋に泊まってもらったくらい、ヤバい状況だった。今にして思えば、心の限界が近づきつつあったのだ。

 翌日の昼、その人と別れ、私はまるで勝手知った町のように地元の居酒屋で日本酒をあおり、テレビ塔のHUBに逃げ込んだ。そうでなきゃ、こないだの失敗も思い出して今にも自殺しそうだった。財布に入っている金全部使って、それでもダメならクレジットでドスでも買いに行くかとテラス席でカクテルを飲んだ。HUBに行く人でカクテルが好きな人は「エックス」を頼むとよい。気のいいスタッフならどんな感じのものが飲みたいかを聞いてくれて、そのスタッフの思うままに一杯を仕上げてくれる。そんでもってハッピーアワーは今でも一杯465円で飲めるのだ。そうして飲みながら空を見上げてみると、どこか桜の咲く時期とは思えない、薄くてきれいな雲がかかっていた。

人間一人の命を助けた(かもしれない)複雑な空

空を見ながら何杯かお酒を飲んでいると、次第に「空でさえこんな複雑なのだから、割り切ってどうこうするものでもないのかもしれない」と思えてきた。気づけばスマホで、近くにあるワインバーを探す自分がいる。知らない町で一人でバーに行くのも初めてだったが、なんせさっきまで死ぬことまで考えていたのだ。お世話になったワインバーは笑顔の素敵な女性が一人で営む静かなお店で、美味しいワインを5杯もいただいたんじゃないだろうか。隣に座ったどこぞのお偉いさんに職業を聞かれて、咄嗟に「ただのしがない旅人ですよ」と返事をしたときは、ちょっとばかり自分で自分のことが信じられなかった。そんな冗談、何処から出てきたんだろうって感じだ。若造相手にお店の外まで「旅人」を送り出してくれた主人に、やや自嘲気味に「死ぬ前にこれてよかったです」と店を後にした。

 帰りの新幹線、私はまだニッカをあおっていた。旅に出ているときは、不思議なくらいよく飲める。特にその酒が不思議な縁で繋がれた日には。誰に、あるいは何に生かされた命か分からないが、どうも本家の地獄巡りは先送りになりそうだ。思考力の弱った頭の片隅で、この地獄をとことん旅してやろうと眠りについた。

青を纏う(6月11日)

 その後、4月になって本格的に仕事が忙しくなると、しばらくの間は新しい仕事に慣れるのに必死で、いろいろとフラストレーションがたまっていた。何とか生きてはいたものの、酒に関係あるなし問わず自分のやっちまったことは毎日のように思い出して後悔していたし、自分にされたことの後始末が何一つつかないままなのも不愉快極まりなかった。そんなある日家族で外食しにいくことになり、少し早く駅についてしまったということで、たまたまやっていた百貨店の沖縄展を見に行くことになった。

 ふだん百貨店のナントカ展に行くとき、私は食べ物しか見ない。食べ物に興味があるというだけではなく、欲しくなっても手に入らないくらい高いものというのがたくさんあるからだ・・・ましてや雀の涙ほどしかない私の年収では。ただ、その日は沖縄の陶器をちらっと見た後、すぐ横のコーナーにパッと見えた黒地に青のシャツに目が引かれてしまった。

うむ、かわいい

taionというメーカーの、ヒスイカヅラをデザインしたシャツだった。ヒスイカヅラはかつて、京都の植物園だったか、温室で見たことがある。綺麗な花で、後で調べて分かったことだが、私が好きな勿忘草と同じ花言葉を持っている。結構高いんだろうなあこういうやつ、と思い一度は売り場を離れたのだが、「たまにはこういうのも」と家族から言われて結局舞い戻ってしまった。こんなに高い服を買うのは初めてだし、そもそもある程度の年になって仕事だろうが私服だろうがずっと赤と黒の服を着ていたので、こんな青いシャツを買う日が来るとは思っていなかった。

 このシャツに目が留まったのは、決して偶然ではない。前から自分で纏うものではないと思いつつ、青は好きな色だったのだ。ただ心のどこかで、青は自分のパートナーになるような人、一緒に生きていく人に着てもらいたい色だという思いがここ最近強くなっていた。その青を自分が着るのは変かもしれない。ただ、誰かそういう人ができるまで、その青を心のどこかで守りたくなったのだ。当時のFacebookの投稿には「この青は誰の血でも染めさせない」というような記述が残されている。

 どいつもこいつもこっぴどく傷つけてくれた。そしてそれに抵抗しようと模索するうちに、自分自身も色んな失敗をした。けれどもこの青はその傷と失敗を帳消しにすることは許さないまでも、何処か忘れさせてくれる爽快さがあった。ただリラックスできるだけの爽快さではない、必要があればまた立ち上がって愛する人たちと戦うぞと思わせるような爽快さだ。

 このブログを書いている現段階で青を託す相手は見つかっていないが、ヒスイカヅラのシャツは秋の終わりまで、楽しくリラックスして酒を飲んで過ごすときの私の新しい定番衣装となった。そしてこのヒスイカヅラのシャツを通して、酒飲みの次の展開が繰り広げられることになる。

一緒に歩くこと、一緒に戦うこと(8月18日~8月25日)

 今年の夏も暑かった。今年も例年通り、朝起きれば冷蔵庫まで辿り着いて水を飲み脱水症状を免れるか、そのまま寝続けて死ぬかを選ぶ毎日が続いた。この間に別の友人と久々に会ってご飯を食べに行ったのだが、お互い時間があけばいろいろ変わるもので、私が酒飲みのろくでなしになっている一方、友人はそこそこ飲める人だったのだがお酒をやめてしまっていた。話してみると、お互い色々あるものの、どこか「この人は変わらないなあ」と思えるところがあって、友人にとっても私がどれほど醜くなってもそう思ってもらいたいなと変なことを想ったりした。

 さて、仕事の前半戦もあらかた終わるころ、嬉しい便りが届いた。もともとは仕事の連絡だったのだが、一緒に働いていた元上司から電話が来て、あれこれ話しているうちにまた会おうという話になったのだ。一連の事件以降、そして自分が友人からある程度愛想をつかされてから、新しく人と個人的に付き合うというのは久々のことだった。友人は住まいが偶々近かったこともあって、バスに乗って会いに行ったのを今でも克明に覚えている。

 仕事抜きで会う人というのは、本当に新鮮なものだ。ばっちりネイルをして髪を整えたその人と喫茶店で会ったとき、今から本当にこんな可愛い人とご飯を食べに行くのかと思ったほど不思議な気持ちがした。(同僚からよく言われるのだが)私の悪い癖で髪型やネイルが変わっていて、それに気づいていたとしても、あまりそのことをあれこれ指摘しないので、本人は消化不良だったのかもしれないと今更反省している。

 昔から馴染みの友人と外を歩くときと違って、ずっと一緒に働いていたはずの人と遊びで歩く道はなぜか少し緊張した。入った店であれこれお互いの近況やバックヤードを話して、二軒目のバーでまたあれこれお話した。そうこう言っているうちに、ふと「私たちは同じなんだな」と思えたことがあった。あまり具体的に描くことは出来ないけれど、業界の慣習や慣例、そういったものでその人は元居た業界を離れ今の場所にいる。私も同じ轍をまさに今踏みつつあるのだ、とふと思った。私のことを(冗談だろうが)肩を小突きながら「マイベストフレンド」と言ってくれたその人とお互いの不安や不満を話している刹那、私はその人の腕を握って、「あなたが傷ついているなら、私も一緒に血を流して戦うから」と言っていた。

 これは三月の正義感と何が違うのだろう。目の前にはっきりとした「悪役」がいないだけで、同じなのかもしれない。独りよがりな正義感は危ないんじゃなかったのか? と自問自答しながらその後も過ごした。けれども、悪党が自分やその周囲の人たちに涙を飲ませようとするならば、やはり何かしらの仕方で戦わないといけないんじゃないか? ゲームのように、悪い奴を殴って終わればそれはそれでよい。シンプルだ。でもそうやって簡単に暴力を用いる解決を大半の人が望まない世界において(悪党は簡単に暴力に訴えるのがタチ悪いのだが)、戦い方もそこまでシンプルでいいはずがない。よりまともに生きるにはどうすればいいかと考えつつ、最後は二軒目近くの元上司の部屋に上がり込んであれやこれやあることないことをお話して帰路に着いた。

 何となくヤクザ者の自分にも希望が持てた一日だった。

まさかこのときの会話が一人旅の行き先を決めることになるとは思わなかった。
ひきこもる酒飲み(9月22日~10月17日)

 ただ、そんな甘いことを言っていると自分にも甘っちょろくなるわけで、残暑激しいなか再び自分にも信じられない事件が起こる。たまに一緒に飲みに行くメンバーがいるのだが、そのなかで酔い潰れる人一号ともども酔い潰れてしまい、家まで送ってもらう羽目になったのだ。家で飲んで眠くなり、ベッドに身を投げてそのまま寝てしまうことはしばしばあるのだが、外でそれをやってしまうのは本当に久々で、家族以外の前でやってしまうのは初めてで、それゆえにかなりショッキングだった。

 いろいろと言い訳は思いつく。たとえば当日は朝6時から起きて仕事だったし、昼寝もほとんど寝られなかった。ちょっと特殊な飲み会でイベントスペースを借りて飲食物を持ち込んだから、買い出しその他で疲れていたのかもしれない。あるいはしばしば一緒に飲みに行くものだから、甘えのようなものがあったのかもしれない。ただどんな言い訳をしようと、やっちまったものは変えられないのが世の常だ。自分で自分をコントロールできるようになろうと思ったとき、結局自分に思いつく最初の方策はとりあえず人との飲み会を開かないことだった。酒飲みはひきこもりの酒飲みになってしまった。なんとも情けない話だ。

 とはいえ、この判断が悪いことばかりだったかというとそうでもない。このひと月で私は改めて酩酊そのものではない酒の良さに色々な仕方で向き合い直す機会を得た。そのなかでも改めてジンの魅力を語ってくれた京都のとあるバーのマスターには、気持ちが洗われるような思いがした。

思えばここも一年に1,2度しか行かないが長いこと通ってるな。

 ここはジンバーで、国内外のいろいろなジンを扱っている。マスターはどういう縁でかは分からないが、最近、とある会社が専売している(写真にもちょろっと写りこんでいる)ジンのボタニカル配合などを同業者と一緒に任された経験もある人だ。それくらいマニアックな人なのは、彼の酒の作り方についてのあれこれを聞いているとよく分かるのだが、そのなかでも彼が3年かけて作り出したカクテルのレシピがあるという。なんとそれは、ジントニック。やや拍子抜けしてしまうかもしれないが、道理は通っている。世界で一番飲まれているであろうジントニックがカクテルのランキングに入ってこないのは、ジントニックがきちんと美味しく作られていないからなんじゃないか、というのだ。確かに私が知っているジントニックと言えば、適当に氷にジンをぶち込んでトニックを入れてかき混ぜただけの適当なものだ。しかし、目の前でマスターが作っている様子を見れば見た目だけでもうまそうなジントニックが出来上がる。なんなら、わざわざ家で作るような適当ジントニックも添えてくれて、「材料は一緒だから飲み比べてください」とくる。飲んでみれば違いは一目瞭然、というわけだ。

 当たり前なのだが、酒はうまいのだ。どれだけ飲むときでも、酩酊するために安酒をあおっているつもりはない。ただ、作業をしながら飲むとき、あるいは人と一緒に飲むとき、酒はお話のひとつ後背に退いてしまう。だからこそ、ときどきこうして美味しい酒が美味しく作られるシーンをのんびりとした気持ちで見ておかなきゃと思う。カウンターで寿司を食うのはなぜか。焼肉屋で自分で肉を焼くのはなぜか。いろんな理由があるだろうけど一つの大きな理由は、うまいものをうまく作る様子をゆったりとした気持ちのなかで確認することが、(そして場合によってはそこに驚きを見いだすことが、)うまいものを丁寧に扱おうとする心に通じるからなのだと思う。

 そうこうしているうちに、会社からひとつの通知がやってきた。さて、今年もあの時期がやってきた。そう、あの悪しき(悪くない)健康診断シーズンである。

羽根休め(10月18日~11月10日)

 いくら酒飲みとはいえ、昨年と同じ轍を踏むわけにはいかない。そして何か問題が起こったときは得てしてそうであるように、まず大事なのは「何か対策をやりました」感を出すことなのだ(嫌な言い方だが、良い解決策なんてものはいきなり思いつくものではない。何かやってる感を出して時間的余裕を確保したうえで、良い解決策を考えるのがベターなのだ。)。私はひと月の禁酒月間を設けることにした。「禁酒」といっても、まずは家族の前で酒を飲まないことにした。完全な禁酒期間を1週間×2で2週間分とっておいて、残りの2週間は友人と会ったり仕事で疲れたりした折にちょこまか飲むことにした。結果的に飲酒量は激減したし、過度にストレスを覚えることなく取り組むことができた。

 最初は、変な離脱症状でも起こるんじゃないかと不安だったが、結果としてアル中のようにはなっていなかった。ただ、お酒と一緒にご飯が食べられないのは辛かった。家族みんなが酒飲みなので、作る料理もついつい酒に合わせた食べ物になってしまう。酒の代わりにご飯を食べて、夜の作業中もワインの代わりに台湾茶をがぶ飲みして乗り切った。もし私が酒飲みになっていなかったら、こんな生活を続けていたのかしらとちょっと不思議な気持ちになったのを覚えている。

 そんなこんなで健康診断明けの私は、解き放たれた獣だった。金曜日の仕事はお昼には終わる。そこで、禁酒中から企画していた梯子酒を敢行することにした。企画と言っても、大阪・梅田界隈でせんべろができそうなお店を幾つかピックアップしておいて、ふわふわお散歩しながらあちこち回ってみよう、くらいのものだ。最初はESTのニクラウスでビールを飲み、阪神百貨店のリカーコミュニティ(百貨店のなかに企画週替わりの角うちみたいなところがあるのだ!)でチーズとワインをマリアージュ、あまり足をのばさないJR方面に向かい山中酒の店でせんべろセットの日本酒三種を飲み比べ、そのまま地下に潜ってたまたま見つけたLUCUAのお店でまたワインを飲んだ。久々にお酒を飲むと酔いが回って、不意にラーメンが食べたくなる。近くで行列ができていたから何となく並んで東京系列のお店でつけ麺を食べると、ふわふわ新梅田食道街に入っていった。

 もうたいがいお腹いっぱいにはなっていたのだが、もうちょっと飲み屋の気分を味わいたい気持ちだったのかもしれない。気づけば、有名なのは知っているけど入ったことのない串カツ屋に目がとまり、メニューを見ているうちに威勢のよいお兄さんに声をかけられて店に入ってしまった。ラーメン大盛り食べたばかりなのに、バットに並べられた串カツとソースを見ていると次第にお腹が空いてきて、結局調子に乗って8本くらい食べたんじゃないかなと思う。隣にやってきたおじさんは相当慣れているらしく、生ビールいっぱいで串数本を食べると、ものの10分くらいで颯爽と去っていった。まだ夕方と言うにも早い時間だったが、これから帰途につくのか、それともどこかにまた繰り出すのか。串カツ屋のせんべろは自分で作るものなのだと学んだ。

新梅田食道街にある松葉総本店に初めて入る。出来立ての串カツはそのままとって食べればよいし、冷めてしまったものは揚げ直してもらえるシステム。

 結局自分の街に帰ったあとも新しくできた沖縄料理店で泡盛を飲んで、挙句の果てに沖縄そばを食べて帰った。ちょっとした旅をしてきたような気分だった。実際、普段目に見えないものを見て、普段気にもとめない人と話して、普段詳らかにしない自分の心を見つめ直すとき、知っている街は全く知らない空間に変わっていく。散財はしたが、せんべろが中心だからそこまで酷い出費にもならなかった。2023せんべろの旅の余韻のなか、私のなかで酒を飲む自分の評価が何かが変わろうとしていた。

リセットとロード(11月22日~11月23日)

 11月23日、私は福井駅前にあるバーにいた。仕事というわけではなく、完全にフリーな一人旅だった。私は普段、一人旅をほとんどしてこなかった。というのも旅自体をしないのではなく、家族と旅行するのがほとんどだったからだ。しかしちょうど一年ほど前に広島・尾道に日帰り旅行に行ったことに味を占め、出張であちらこちらに単身行ったこともあり、次第に一人旅への欲求が高まっていたのだ。10月の仕事も一つ片付いたあたりに、ふと福井に行こうと思った。契機となったのは、先ほどご登場いただいたベストマイフレンドで、その人の出身地が福井だったのだ。しかもよくよく聞けばご実家もイタリア料理を営まれているということで、店は知らなかったものの急に福井が気になってきた、というわけである。

栗を贅沢に使ったショートカクテル。栗焼酎ってダバダくらいしか知らなかったけど色々あるのね。

 福井も、原発のある海浜部は訪れたことがあるが、陸路だといつも北陸道の途中でスキップしがちな土地だった。ただよく考えると初めて伝統工芸品に認定された越前打刃物は福井のものだし、鯖江は眼鏡で有名だけど同じくらい漆器でも有名だ。自殺の名所で有名な東尋坊も福井で、その自殺の名所の近くには越前ガニを売るお店がたくさんある。なんだ福井良いじゃんとなりベストマイフレンドにそのことを告げたところ、ご実家の料理店の名前が分かり、よっしゃ行ったろ! となったわけだ。

 実は純粋な泊り付きの観光旅行で一人旅というのも今回が初めてだった。酒を飲んではふらつく。知らない田園地帯を、友人が通ったかもしれない道を、海沿いの自動車道を。酩酊しているが、きっと私の目はらんらんとしていたに違いない。友人の実家が営むお店で私は結局、自分の素性を明かさなかった。突然訳の分からない人が「あなたの娘のお友達です」なんて気持ち悪いことこの上ないだろうと思ったし、私はかつてストーカーにそれをやられた側でもあるのだ。それでも面白い人は面白いもので、私の友人の母親なのだなと思うと思わずニヤッとしてしまった。そのまま夜は居酒屋でどこでも食えたはずのイワシとアジを食らい、翌日は東尋坊からセコガニを食べつつ南下し再びの福井市へ。地元で有名だという焼き鳥を食らったところでバーが恋しくなり、ここへ行きついたというわけだ。夏に家族旅行で高知を訪れたとき、たまたまフルーツカクテルの美味しいお店を引き当てたこともあって、福井でフルーツカクテルが飲めるお店を調べていたら、目と鼻の先の駅前のバーが引っかかったのだ。

 この一年のいろいろとした思いが次第に固まりつつあった。あるいはこの記事のおかげで過去の解釈が固まったのかもしれない。酒を飲んで記憶がなくなるまでどうこうすることはいつでもできる。嫌なことを忘れることも酒でかなうかもしれない、それでも外で酒を飲む理由は何か。4杯目の柘榴のカクテルを飲んでいるとき、ふと「リセットとロード」という言葉が浮かんできた。たとえばRPGをプレイしているとき、敵に勝てそうになければ自然とリセットボタンを押す。作中の登場人物はまるで初めて戦うかのように再び敵に臨むわけだが、当然プレイヤーはリセット前の記憶を残している。この意味で私は何度も失敗をリセットした体で、酒飲みの一年を繰り返してきたんじゃないか。知らない飲み屋で過去の過ちも良いことも忘れたふりをして、一杯と向き合うことができるというわけだ。

 ただやはりプレイヤーにとって負けた経験が帳消しにならないように、「ロード」というのは、少なくともゲーム用語のなかではある状態を引き継ぐことだ。どんな状況でリセットした体で酒を飲んだとしても、心まで真っ新な状態ではない。人には言わない、あるいは言えない状態というのが、ボーっとしているバーの一杯では鎌首をもたげてくる。忘れたいものが忘れられないものとして立ち現れてくるし、その日に忘れたいもののために犠牲となったどうでもいいものがたくさん立ち現れてくる。目の前の一杯を飲むとき、私はリセットをしているようで、過去をロードしているのだ。その日初めて会った店主や隣人と話をしてなるべくまともな人間の面を装いながら、心の深いところでは過去を想起し再び思う。目に見えるものをちゃんと見よう、聞こえる声に耳を傾けよう、そして飲んだくれの自分が今そうしているように、きちんと心の奥底では過去と自分の思いに心の目を向けよう。ふとマスターが言った。「お顔がだいぶ赤くなってきましたね」と。酔っぱらいはきっと、何かを恥ずかしく思っていたのだ。

Drunken Moral(12月11日)

 やっとここまで辿り着いた。今日は散々な一日だった。冒頭で話したように今こっぴどく痛めつけられているのだが、つい1日ほど前に私は「もう俺は誰の言うことも聞かない」と最後通牒を突きつけてきた。あまりに気分が悪く安酒をあおって寝たら持病の胃腸炎が一気にひどくなってしまい、昼の仕事は倒れるんじゃないかとさえ思った。まあなんとか持ちこたえて帰る途中、諸々の感情で気持ちが壊れそうになってしまい、この記事を書かねばと思いつつビールを2パイントほど飲んでしまった。ろくでなしは今日もろくでなしだ。そんなわけで、頭がポンコツのまま、主と同じくらいろくでもないこの物語の結論を書かねばならない。

飲んじゃったね。うずらのスパイス漬けがいいつまみ。

 これはなんとなくの予感でしかないが、きっと私は遠くない将来、再び闇に隠れることになるのだろう。この二年余りで、私は自分が所属するこの業界が心底情けなくなってしまった。長年この業界にいて酒に溺れて泣きを見たと言えばそれまでかもしれない。ただそれでもインパクトがデカすぎた。比喩でうまく言えるか分からないが、「私たちは製品の安全性を保証しますよ!」と言ってる連中が「安全性って何ですか?」「製品の安全性ってどうやって確かめるんでしょう?」と問うような場面ばかり見てきたので、残念なこと極まりない。そうとは言っても、よくよく思い出せばこの一年の酩酊と酔っぱらいの思考は、それなりに未来を照らす一助になってくれた。

 グラスをあおり、走馬灯のようにこの一年を振り返るとき、どのシーンでも思うことがある。それは、自分はその時、しっかりと目の前にある状況を見ようとしたし、人の声に耳を傾けようとしたし、自分の思っていることを言葉にしようとしたということだ。どれほど酩酊しても、その結果がどれほど悲惨だったとしても、自分はその場その場でちゃんと目の前にいるものと向き合おうと努力はしたと思う。これは、自分が酒で失敗をしたということとは別のことだ。

 酒飲みの戯言や言い訳だと一蹴されてもおかしくないこの言葉に、私は最近、自分の道徳の基本を見いだしたいと思っている。きっと人というのは、自分がどうでもいいと、あるいはくだらないと思っているものをきちんと見ようとはしない。街角にある過去の名残を、横で困った顔をしている人を、酩酊してどうにかなっている自分自身を、どうでもいいと思っている人は見ない。そしてどうでもいいものに人は冷酷だ。人の思いの詰まったものに平気で小便をぶっかけるし、困り顔の友人を怒鳴りつけるし、自分自身をコントロールしようとすら思わなくなる。同じように、人はどうでもいいと思っている話は聞かないし、どうでもいいと思っている心の中身なんてものを言葉にしようなんて思わない。

 けれども道徳が問われるとき真っ先に必要なことは、まずは様々なことを豊かに知覚することのはずだ。死刑制度に賛成か反対か、功利主義は正しいか――机上の理論(「空論」とは言わない)には幾らでも答えられる人も、現実の場面で道徳的な判断に驚くほど戸惑うのは、皆目見当もつかないからではなく、こうした豊かな知覚がありすぎるからだ。目の前で苦しんでいる人の気持ちを汲もうともしない人間に、道徳的な判断なんてそもそも期待できないのだ。

 一部の人はここできっと首をかしげるだろう。つまり、そんなことをするのに酒なんて必要ないと言われればそれまでだ。でも、私には酒があることでやっとそれをする余裕が生まれたのだ。酒にはたくさん悪いところがある。それは自分自身が体感してきたところだ。でもその悪いところも含めて、自分は言いたいことを言いたいように言えたし、それに自分で責任をとろうと思っていたはずだ。喧嘩になったかもしれないし、そうでなくても揉めたかもしれない。泣きじゃくって人に迷惑をかけたかもしれない。でももしそうなったとして、私は彼らに立ち向かっただろうし、今みえるものを見ようとしただろう。見ることから逃げないために酒が必要なら、きっとあの酒は必要な酒だったのだ。そうでなきゃきっと私は、私を痛めつけた大勢の人間と同じ生き方に逃げてしまっていたかもしれない。そう思うと、保身も上手な立居振舞も必要ない、酔いどれと非難されても私は後悔と罪の意識をロードしながら何度もリセットした顔で酒を飲んでやるさと思えるのだ。

 間違いだらけの人生だ。普通の人みたく上手には生きられない。仕事も人並みにできるわけじゃない。今更体よくも生きられない。ただ、人の血を流して平然としている奴らにまで成り下がらないようになろう。人間は間違える。思いもがけない事態で人を傷つけたり、思惑がうまく働かないときがあったりする。ただ、それを逃げ口上にしないようにしよう。自分の傷とも人の傷とも一生付き合っていこう。その代わり愛する人たちとは楽しく酒を飲み、いざとなったときは簡単に暴力に訴える相手を真っすぐに見据えて立ち向かってやるさ。

 クソみたいな物語だ。最後はちょっとでもさわやかに、今年、宮本佳林さんが出した「Lonely Bus」という曲の一節でお話を終えよう。泣こうが吐こうが表舞台に立てば役者らしく振舞わないと。さて、いつまでも過去のことでぐちぐち言ってもいられない。明日もふわり働きましょうか。そして仕事終わりには人知れず、楽しくグラスを傾けよう――愛する人たちを想いながら。

与えてもらうより与える人に

愛を変わらず備え持った人に

なれなきゃ意味がないよね

だってせっかくのDeparture

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謝辞

今回、「はじめて」をテーマにブログを書く機会を得て、実は一年の最初にふらりと出かけた「はじめて」がきっかけとなって、ろくでもないけどいろいろなはじめてが連鎖していったことに改めて気づいた。ちょうど精神的に参ってしまうタイミングということもあり、こうした整理の時間をいただけたことは、自分の来し方行く末を考える大事な機会ともなった。こんな企画にお誘いいただいたことにこの場を借りて某氏に御礼申し上げたい。