個室にて

Ars Cruenta

酒と傷

 コロナの影響やら個人的な事情やらで、長らく友達と会っていろいろお話する機会というのがなかったのだが、オミクロン以降、少しずつそういう機会を確保するようになった。新しい友達もできて、あれこれお話する機会が増えたのだが、なんとなく、しばらくお酒を飲み進めていると、どういうわけか、いつもどこかで相手の影を感じてしまう。影と言っても、悪意とかそういうことではない。目の前で笑ってくれている相手の、押し殺している苦しみとか傷、そういったものをどうしても感じてしまうのだ。

 これまで楽しい話をしていたとしても、ふとした拍子にこういう影が出てくる。愚痴を思い切り話したい人でなくても、本当にふとした拍子に、影で苦しんでいるんだなと思うようなことが出てくる。やはりお酒を飲みながら話をしているからこそ自分の傷について話してくれるのだろうけど、こちらからぐいぐいと傷について触れるわけにもいかない。話したいだけのことを話してくれたらいいのかな、と思いつつ、本当はもっと困っているんじゃないの、と思いたくなることがある。どうしたらいいんだろう。

 なぜそんなに嚙み合わないのかと不可解なことではあるけれど、仕事や交友、あるいは家庭内でみんな何かしらのトラブルを抱えている。私だってそうかもしれない。そういうとき、楽しいお話をしていたとしても、どこかで自分の抱えているトラブルを分かってもらいたくなってしまう気持ちが自分には痛いほどよく分かる、あるいはよく分かっているような気がする。そういう人に限って、感情を押し殺して、人前で笑顔を保とうとする。それでも押し殺せないものが出てきて、ぽろっと哀しいことを言ったりする。良い人に限って、すぐさまその哀しみを取り消そうとする。取り消してどうするんだ、ちゃんと聞いてるよと言ってあげたいが、聞くだけでなにかが本当に変わるんだろうか。そんなことで本当に心は軽くなるんだろうか。

 マクベスの言葉で、ある先生が取り上げた、お気に入りの言葉がある(ただ、物語での使われ方とはニュアンスがだいぶ異なる)。「騒ぎ立てる声とその形相はすさまじいが、意味するところは無。」ちょっとしたことで自分が傷ついたと思い泣き叫び大騒ぎする奴ほど、実は何も傷ついていないものだ。人前で涙を流すこともできないほど人に配慮しながら辛い思いをした人に、どう接していけばよいのだろう。そんなことを最近はよく思う。