個室にて

Ars Cruenta

歩く

 箱根駅伝が今年も賑やかに行われているが、ああやって公道を貸し切ってお祭り騒ぎをせずとも、馬鹿みたいな距離を走ったり歩いたりするということはそれ自体がお祭りのようなものなのだと思う。いやむしろ現代の場合、馬鹿みたいな距離を走ったり歩いたりするという行為が含み持つ余裕、無目的、特別感のようなものがあるからこそ、ファン・ランや地域おこしのマラソン大会、そして駅伝のようなものが持て囃されるのだと思う。

 新年の前後、どこかでふらりと外に出かけたくなる時がある。私の場合、黙々と歩く。ただ、お祭り感と言うよりは、辛くて悲しいネガティヴなものを振り切るように、暗い気持ちを抱えながら歩いていく。ある年は1月2日から、尼崎を飛び出して結局宝塚まで歩いていったし、大阪に出てキタとミナミを往復したこともある。最初はいつもの散歩と同じ感じなのだが、ある程度の距離を歩くと少しずつ暗い気持ちがなくなって、テンションが上がっていく。そうなると足の痛みもそこまで気にならなくなって、自分が歩いている見知らぬ土地への愛着に目覚めることができるようになる。

 (一部の人はまったくそうでもないだろうが)公道を走るのは普通に考えればそこそこ危険がたくさんあって、走るスピードでは周りを見るのに早すぎる。街の中を歩き回っているうちに、不思議なものを見つけたり美しいものを見たりして、スマホのシャッターを押す心の余裕が生まれていく。

 人と街を歩いていても、きっとこの孤独な散歩者の視点があってこそ、人と経験を報告し合い、楽しいことを共有できるのだと思う。孤独な自分に見えていないものが、人と一緒にいるだけで目の端に映ずることはあまりないのではないだろうか。逆に孤独な自分がいるだけでは、人と一緒にいることは出来ない。仲間とたまに語らう機会を設けながら、その機会を自分の感情の世話に費やさないよう気を付けて、孤独な自分の能力と一緒にいてくれる他人の両方の契機をもって、一緒に歩くことを(駅伝や散歩とは違う仕方で)楽しい経験にしていけたらなと思う。