個室にて

Ars Cruenta

自分の痛みを嘆くには

 昔、こんなことがあった。とあるところで抗議活動をしている人たちがいて、そこにはそこそこみんなから愛されている一本の木があった。彼らは自分たちが酷い仕打ちを受けているのだとビラを配り、その内容について滔々とマイクで演説をしていた。たまたま通りがかっただけだったのだが、私はふと、その木に直接紐が括られているのを目にした。大きな木だから、木そのものを使って幕を張っているようだった。昔から、木に直接紐をかけるのが嫌いで(そういう教育を受けてきたのだろう)、ふと私は近くにいた抗議活動の女性に声をかけた。別に幕を下ろせとまで言うつもりはなかった。新聞紙でくるむなりなんなり、ましてや人の敷地内なんだから、そのあたりは配慮が必要なんじゃないかと言ったのだ。

 聞く耳持たずだった。女性は「そんなことよりも」と私にビラの内容を説明し始めた。「酷いと思いませんか?」そのとき、私はその女性が心底嫌になってしまった。途中で遮って「私は木の話をしているのですが」と応ずると、女性は木のことなどどうでもいいじゃないかとばかりに嫌そうな顔をして、また言いたいことをまくしたて始めた。もう一度遮って、思わず「あなたは自分の痛みを分かってもらいたいと思っているけど、人の感じる痛みを知ろうともしない人が自分の痛みを分かってもらえますか」と言った。女性は結局「はいはい、何とかしますよ」と生返事を返して、別の誰かに近寄って行った。

 確かにその抗議活動で言われていることには、幾分かの真実が含まれていただろうし、その中には抱いて正当と思われるような怒りや痛みがあるのかもしれない。しかし人に自分のことを分かってもらおうとするならば、相手の声にも誠実になってしかるべきなのではないだろうか。自分が傷ついた時にだけギャーギャー叫んで、人を傷つけたことについてはそ知らぬふりをしているようでは、そんな人の相手をしてくれる人は「まだその正体を知らない人」に限られてしまうだろう。

 なんとなく先日、ふとした拍子にこの事件のことを思い出した。最近、人の嫌な姿を見ることが多いし、どぎついこともあったので、こういう小さな諍いがそういう種を孕んでいることを想起したのかもしれない。聖人君主じゃないのだから自分もいろいろな不義理をしてしまうことがあるが、こういうことを思い出して、誠実に生きるというのはかくも難しくて、それでも大事なことだなとたまに思い出す機会が必要なのかもしれない。