個室にて

Ars Cruenta

ミュートとブロック

 何か自分が見たくないものを意識的に見ないようにすることと、何かを拒絶してブロックしてしまうことは、似たような効果を生むように見えて実際は結構異なる。後者には必ず、たとえ見ず知らずの相手であっても、此方もナイフで何かを切り落とすような痛みが伴う。たとえば酔っぱらいのおじさんが壁に向かって小便をひっかけているとき、それを嫌なものとしてみないようにするのは簡単だが、おじさんにチンピラ10人くらいをけしかけるにせよ、警察を呼ぶにせよ、そこにはおじさんをその場にいちゃいない存在として扱う心理を働かせ、場合によっては「そこまでしないといけないのかな」と思わせるほどの痛みが伴う。間を取って中途半端におじさんを諭すという選択肢もあるのかもしれないが、意外とこれが可能になる条件というのは厳しい。

 みんなが仲良く生きていくために必要なことは、ブロックではなくミュートなのではないかとしばしば思う。いろいろなことがある以上、いろいろな人間関係の中で嫌なことがあっても、ある人を締め出すようなブロックは今でも血を流し続けるほどの痛みを伴うことがある。嫌なものは見ないだけでいいのではないか、その人を締め出す必要はないのではないか。そして嫌なものが親しい人のうちにあるならば、見ないふりをしながら少しずつ、示唆していけばいいのではないか。酔っぱらいの見ず知らずのおじさんと親友の違いはまさに、後者は諭すことが有効であることにあるのだから。

 それでも痛みを伴うブロックが必要な時はある。諭しても聞いてもらえなかったり、これ以上は自分が耐え切れないほどの痛みを加えられたりしたとき、もはやミュートという行為ではその人の声を遮断できなかったりするとき、人間関係はブロックという形で瓦解する。ただ、瓦解するものにも作法というものがあって、ちょうど建築物の解体と同じで、崩し方というものがあるはずだ。