個室にて

Ars Cruenta

自分を変えるかガラスを変えるか

 「そんなこと考えたって仕方がないよ」と言ってなんでも行動することが良いのだと言う人がいる。いやしかし、行動というものは考えた結果として出てくるもので、考えることを過小評価することは、無責任で時に破滅的な行動に結びつくのではないかと時折思う。しかも考えることには、個々の行動を変えるのみならず、行動様式そのものを変える力だってあるじゃないかと思う。「私は変わりたいんだ」と考え続けることで、あるべき自分を見出して悪い習慣をやめ、筋の通った人間に変わっていくこともできるだろう。

 ただ、考えることは同時に、自分に向かってやってくるものの受け取り方を変えることもできてしまう。「みんなバカばっかりだ」という考えで頭がいっぱいになってしまったら、その人はみんなを小馬鹿にしながら、主要な自分の行動は何も変えないままに生きていくことになるだろう。色眼鏡のガラスが変われば世界の見え方は変わるし、それによってたとえば自分の心は守れるかもしれない。しかし、それで世界の何が変わるのか。

 考えが煮詰まった「思想」とか「哲学」というものをイメージするとき、それは自分を変えてしまう力を持つのか、色眼鏡のガラスを変えてしまう力を持つのか、どちらなのだろうと時々考える。早い話、熟達した医者がレントゲンを見て悪いところを言い当てられても、それはその人の色眼鏡が職業にあったものになっただけで、医者自体の生き方が変わるほどの影響は多分持たないだろう。同じように、いろいろな概念や専門用語をまとえばそれはその人の色眼鏡になり、世界の解釈を助けてくれるのかもしれないが、それによってどれほどその人を変えられるのだろう。

 こうしたものの考え方はたいてい「きれいごと」だ。人と人は分かり合えるはずだ、寛容でなくてはならない、人の間違いを許さないといけない、などなど。しかしだからこそ、やはり結局は自分が信じた色眼鏡を行動と結び付けていくことこそが肝要なのだろうと思う。考えることで現実と取っ組み合う感覚を知らなくてはならない。私はまだ自分を変えられるだろうか。