個室にて

Ars Cruenta

永遠の命と希死念慮

 小学2,3年生くらいのころだったと思う。当時から寝つきが悪く、夜は布団で横になってなかなか眠れなくなる時があった。そんなある日、突然自分がいつか死ぬということが気になった。自分が死ぬということはどういうことなのか。当時は老衰なんてなかなか想像ができなかったし、死因についても大して思いつくところがなかったが、突然この意識が失われて、「それから」どうなるんだろうということが気になって仕方なくなってしまった。

 いくつかのケースを考えた。「本当にそこで終わり」と考えると怖かったので、あるいは人間の魂はどこかをさまよって、魂の世界に行くのだと考えてみた。この場合、自分は肉体が死んでもとりあえず生きていることになる。しかし、魂には終わりがあるのだとすれば、私はいずれ、魂の死を迎えることになる。肉体なく生きていくことさえ想像しがたいのに、魂が死んでしまってまだ何かが残るとは思えなかった。このケースだと、答えが一段階先延ばしになるだけのようだ。

 仏教系の幼稚園に行っていたことなども影響しているのか、当時から輪廻転生のような考え方には一応馴染みがあった。このケースなら、とりあえず命の終わりについて考えずに済みそうである。魂はぐるぐるリサイクルされて、私は記憶を全く失っているかもしれないが(前世の記憶がないのだから、今度もないのだろう)、ふとした瞬間に何かの生き物として日々を過ごすのだろう。しかし、地球にだってきっと終わりはあるのだとふと思った。身体が死ぬように地球が何らかの形で死んでしまったら、そもそも転生先がなくなるのではないか。その場合、行き先を失った無数の魂は宇宙をさまようのだろうか。何者にもなれず宇宙の終わりを見て・・・その先は? フィクション作品でよくある、存在し続ける恐怖を感じ取り、鳥肌が立つのが分かった。

 こういうことを連日考えて、最後は真っ暗闇のなかでいるのかもわからない神様に「死にたくない」とお願いする日々がしばらく続いた。いつからかあまりこんなことを考えなくなったのだが、大学院に入ってからは、今度は誰もいないところでしばしばふと「死にたい」と呟くようになっていた。あれほど死にたくないとお願いしていたはずの人間が、たった20年でこれほどまでに性向を変えてしまうとは驚くべきことなのかもしれない。憂鬱や無力感の影響もあるのだろうが、何となく心のどこかで、これは子供のときのあの夜の反動なのではないかと証拠もなく思うことがある。

 なんであれ、片方の極端を覗いた人は、もう片方の極端へと走りこみがちだ。