個室にて

Ars Cruenta

消去法の愛

 誰かに好かれている、あるいは誰かが好きだというとき、ときどきある論法が用いられる。私は消極的な意味合いを込めてこれを「消去法の愛」と呼びたい。

 たとえば川で恋人ともう一人別の人が溺れている。どちらを助けようというときに、「恋人だから」ともう一人を見捨てて恋人を助ける。買ってきたお土産のお菓子が一つしかなかったときに、それを会社の同僚にではなく恋人に渡す。要は恋人を選ぶために他にあり得る選択肢を切り捨てる生き方が「消去法の愛」である。上の例だと、たとえばもう一人の人が見知らぬ人ならば恋人を助けるという人が多いのかもしれないが、「消去法の愛」が問題なのは、これを突き詰めれば突き詰めるほど過激な行為に走らざるを得なくなるという点にある。

 実際にこの論法が用いられる場面として、典型的には「私と過ごす時間とXXに費やす時間のどちらが大事なのか」という質問文が挙げられる。そりゃ一年の殆どの時間をガンプラやほかの異性との交流に費やしているという背景のもとでこの発言がなされたら一定の説得力があるだろう。しかし個々の場面でいちいちこの質問が飛んできたらどうだろう。恋人と過ごす時間の他に、人には仕事をする時間、趣味に関わる時間、他の人と関わる時間など、様々な時間が必要なのではないだろうか。要は人間は社会関係の複雑な網の目の中に生きている以上、恋人との関係は実は「その一つ」に過ぎない。でも個別の場面でこの質問を繰り返してそれに対し相手の思うつぼになって答えていると、他の関係は色々と阻害される。極論、一生懸命に働かないと生活が成り立たないと言ってもこの質問をされて恋人を選んでいては、生活保護待ったなしだろう。

 それでも尽くしてくれる人、自分の欲望を叶えてくれる人がほしいという人もいるのかもしれない。逆に、そこまで求めてくれる人、自分だけを見てくれる人がほしいという人もいるのかもしれない。しかし仮にこの二人が結婚したとしよう。ふたりはべったりいつまでも一緒なのだろうか。もしかすると自営業でシロップを割るだけのレモネード屋さんでもするのならそうなのかもしれない。しかし多少複雑な自営業になってみれば分かる通り、自営業の中でも多くの場合は時間・空間を隔てる分業はある。もっと言ってみれば、共働きなら一緒にいられる時間というのはそれほど長くない。そこで「消去法の愛」の論法はどこまで役に立つだろうか? 生活が成り立たなくてもべったりいる二人というのは生活者ではなく、ただの依存症者なのではないか。

 確かに恋愛や性愛に「他よりその人を選ぶ」という性質があるのは事実だろう。でも実際にうまくいっている愛のカタチというものは、もっと柔軟で強かなものなのではないか。ずっと握っていたい手を離しても、相手が他の異性とセックスしていないと信じられるし(信じていないからこそ浮気はショッキングなのだ)、どこかで自分のことを思ってくれていると前提できるから多少の距離を堪え忍べるのではないか。