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Ars Cruenta

24時間テレビと「感動ポルノ」

 ネットでは割と、24時間テレビに否定的な声がよく聞かれる。特に「感動ポルノ」という言葉が使われるようになってからこの言葉は24時間テレビ批判でよく用いられるようになって、NHKの障害者バラエティは24時間テレビにぶつける形で番組を作ったりもした。確かに24時間テレビはチャリティ番組のなかでも感動を呼ぶ演出に拘泥している感じはする。障害者であるなしに関わらず何かを達成する姿を見せたり、再会を取り上げたり、何よりその背後にある人々の思いを赤裸々に(あるいは不躾なほどに)明るみに出す演出によって人を感動させようとする。その意図がかえって一部の人をしらけさせ、批判に繋がっているのだろう。

 ただ、「感動させる映像」以前に、この番組にはそもそも「何かを達成したい人」がいるのだということもやはり、忘れてはいけないのではないだろうか。重い障害を負った子供にさせるには危険な企画もたくさんあるが、それをやりたい人・やらせたい人たち(つまり家族)がいるからこそ企画が実現する。それは障害を持とうが持つまいが変わらない。それが演出され加工され「感動ポルノ」のように使われることを知っていたうえでも、一部の人たちにとっては有名人と一緒にやりたかったことをやって、それを専門家や多くのスタッフがサポートしてくれるという環境は、やはりそれなりに魅力的なものなのだろう。それを外野が「障害を見世物にしている」などと言って複雑なものを簡単に「感動ポルノ」とレッテル貼りするのは、それはそれでそれなりに失礼なことなのではないか。感動ポルノを徹底的になくせば、きっとああいうことに挑戦したい子供があれだけのサポートを受けてテレビのスポットライトを受けて演技をすることができる場所も失われてしまうだろう。

 こう書いていて思い出すのが、昔の見世物小屋である。ああいう場所も「障害者を見世物にしている」と批判され、姿を消していった側面があるという。しかしああいう場所があったからこそ、そこでエンターテインメントの仕事ができた人たちもいたのではないか。見世物の障害者プロレスの代わりにパラリンピックがあったとしても、パラリンピックで日銭が稼げるわけでもない。みんなイヤイヤ強制労働させられて苦しみながら仕事をさせられていたのでない限り、あの場所がなくなって喜んだ人たちばかりでもないだろう。