個室にて

Ars Cruenta

夢という経験

 よく知識の哲学の分野で、幻覚や夢のなかで起こったことについての信念をどうやって知識に含めないかという問題が取り上げられる。たとえば夢のなかでライオンに追いかけられているとき、私は夢のなかで「ライオンがすぐそばまで来てる!」と思うかもしれない。でも実際はベッドでいびきをかいて寝ているのだから、ライオンについての信念は知識にならないというわけだ(これってソーサが挙げてる例だっけか?)。

 知識としては、確かに夢のなかで得た信念は認められないかもしれない。私は夢のなかでクラスメイトと話をしていて、彼女の下の名前を聞いて「良い名前だな」と思ったことがある。その後、現実で「あなたの名前、すごくいいですね」と言ったらものすごく怪訝な顔をされて、「私~~(本名)ですけど」と返されたのだった。私は夢と現実を混同しがちで、これと同じような失敗エピソードがちょくちょくある。

 逆に言えばこれは、それだけ夢のなかでも現実に近い体験をしているということかもしれない。夢のなかで誰かと雑談をしたり、一緒にどこかに行ったりすると、目覚めたとき少し憂鬱が軽くなったりすることがある。哀しい人に見えないこともないが、夢は知識を与えてくれずとも経験を与えてくれる。そして割とその経験は、現実に帰ってきたときも感情や考え方に影響を与えうる。

 それでももちろん夢は夢。神様のお告げが夢のなかで聞こえてくるのは、その夢が私秘的なものだからだろう。公共の場でお告げがあっては、それは神秘的な経験にはならない。夢の中の経験は私にとってのものだからこそ価値がある。しかし現実の経験は―特に人と過ごす時間は―共有されてこそ価値を生むところがある。「一緒に何かをする」という経験は、夢では絶対に味わえない。人恋しさはどこまでいっても消えないわけだ。