個室にて

Ars Cruenta

仕事の値段

 とかく安い給料で人が使われる時代なのか、しょっちゅう「自分の得ている賃金に見合うだけの仕事さえすればよい」とか「この給料でそこまで求められても」とか、(最近は一部業界を除きあまり聞かなくなった気もするが)「やりがい搾取」といった言葉をよく耳にする。確かに過労死などが社会問題になっているなか、人がまともに生活できないような仕事量を任されたりするのは大問題だと思うし、頑張りすぎて倒れてしまうくらいなら、頑張りどころだけ押さえてあとは出来ませんでよいとは思う。ただ、文脈を変えて、たまにこの言葉が「だから手を抜いてもよい」という意味合いで用いられているのだとすると、やはり違和感を覚える。

 違和感を覚える一つの背景には、「適正な賃金で」などと言う割に、働く側には自分の仕事にどれくらいの賃金が支払われるべきかのイメージが共有されていないという事実があるのではないだろうか。たとえば身の回りの人でも、たとえばケーキ屋のバイトや日雇いシナリオライターの「相場」とか「実際の額」を知っている人はいるかもしれない。しかしある仕事の人がどれくらいの仕事をしたらいくらもらうべきかについては、なんら共有されていないのではないだろうか。たとえば今でも多くの人が低い賃金で生きている以上、この問いに「食っていけるだけの」と答えてはならないし、どれくらいの余暇が確保されたらいいのかも分からない。分かっているのは、大抵の業種で、今のままじゃ何かしらが不足しているという点だけなのではなかろうか。

 自分の仕事の価値を自分で値踏みするのはいいのだが、他人がその仕事をどう評価するかは分からない。そこで、どうやってその値踏みが妥当だと人に示せるのだろうか。さらに言えば、もしその値踏みが妥当なら、みんながそれだけ手抜きをすべきだということになってしまう。もしこうなってしまうと、賃金が上がるまで、どの店も各々半分ストライキに入ってしまうようなものではないか。それを今の私たちが望んでいるかも問題になるだろう。そういえばしばらく前に、店がなりゆかないと本部の指示を無視して24時間営業をとりやめたコンビニがあったが、あの判断に対し肯定的なコメントばかりが並んでいたわけではないことは注目に値するのではないか。