個室にて

Ars Cruenta

社交と挨拶

 コロナもあって、最近は人と人とのつながりに関するいろんな議論がいろんな形で聞かれる。オンラインじゃやっぱりいかんとか、マスクをした交友関係では恋愛の情もわきづらいだろうとか、そもそも社交の場が失われているんじゃないかとか、メタバースでいいじゃんとか、それこそいろいろ。ただこういう議論でとかく前提されがちなことのひとつとして、「人と人とのつながり」というのが、ある限った場所と時間で何らかの目的を持って集まる集団が想定されがちなんじゃないかという気がする。この目的を経済合理的に追及しないような集団なら、それは「社交の場」と呼ばれるものに近くなる。

 けれども、人と人とのつながり、それも血縁や地縁に必ずしも縛られない関係というのは、もう少し広くて緩いものがたくさんあるのではないか。たとえばコンビニに行ってレジを打ってもらう。いつもの店員さんだと此方が思っていれば、向こうもいつものあいつだと思っているかもしれない。これは人と人とのつながりではないのか。コンビニの客と店員が言葉を交わす機会は少ないかもしれないが、飲食店になるともう少し会話の頻度は上がるかもしれない。あるいは商店街を歩いていていつもこの人を見るなとか、同じマンションに住む人とすれ違って挨拶をするとか、こうしたことは普段は意識しないかもしれないけれども、やはり人と人との縁なのではないか。

 えらそうにこう書いているつもりではない。実のところ私はいつもイヤホンを着けて、人の顔のわからなくなった目で街を歩いているのだから、実は声をかけられても全く気付いていなかったりすることもある。ただたとえば独居老人の孤独死などで、彼らに「社交の場」を用意する以前に彼らに声をかける何者かが必要だという次元の問題になるというのは、社交以前に私たちがもっと希薄ではあるが様々なつながりを持つ必要があることを示唆しているように見える。