個室にて

Ars Cruenta

ひとつの職業、ひとつの役割?

 よく聞く「○○不要論」というのは、「○○はXXをしている。しかしXXはいらない。したがって○○はいらない。」という形式をとっていることが多い。○○がなんであれ、それが果たす役割は必要のないものだから、○○自体いらないだろうというわけである。たとえば大学の文系研究者が批判の対象になるときは、「大学の文学研究者は趣味の研究をしているが、そんなものは役に立たないからいらない。だからポストをもっと削ってしまえ。」となるわけである。もう少し巧妙になると、「公務員はいらない仕事をたくさんしている。いらない仕事をすっぱ抜けばよい。そうすればもっと公務員の数を減らせる。」となってくる。

 こうした議論を聞いていると私はついつい「それならなんでこれまでそういう職業が続いてきたのだろう」と思ってしまうのだが、実際、上のような議論の形式は、ひとつの職業がひとつの役割を担っているということを暗に仮定している。ある職業が担う役割が仮に一つだけであり、それが彼らの思うようなものならば、上の議論は成り立つ。しかしある職業が担う役割が多様であり、彼らの思いもよらないものがたくさん詰まっているならば、上の議論はあてにならなくなっていくだろう。

 たとえば寿司屋。寿司屋はうまい寿司を握ってそれを食べさせるのが仕事だろう。じゃあ、寿司屋が社会において果たす役割はそれだけなのだろうか。たとえば寿司屋は魚を仕入れなくてはならないわけだが、そこには自分の店で提供する品質の良い魚を選ぶ目利きの能力が問われる。良い寿司屋は良い魚をもってくる卸や魚屋を信用するだろうし、逆にろくでもないものをつかませようとする業者を追い払うだろう。そして寿司屋の魚を食べる客は、良いものを食べることによって物の良し悪しがわかり、自らが買い物をするときも良いものと悪いものを区別できるようになる。寿司屋の存在は、単に寿司を売るだけでなく、街に流通する魚の質を決める一つのファクターにもなりうるのである。さらにお話し好きな大将はしばしば、家で魚を扱うときのポイントなども教えてくれる。こうした教育を通じて一般の人は、家でも上手に魚を扱えるのである。こうなってくると、近年ではすっかりなくなったインバウンド需要を食い物にして「ぼったくりでもなんでも、飲食店としては売れる寿司屋が偉い」なんてことは一概に言えなくなってくる。実際に、インバウンドで儲けた一部の商店街には、地元の人たちが寄り付かなくなってしまったということはコロナの影響ですでに証明されたことである。

 こう考えると、「文系不要論」に対し「文系はやっぱり大事だ」と返すのも結構だが、彼らがどのように多様な役割を担っているのかを主張するというのは一つの戦法になるのではないか。こと、専門家のひとつの役割が知識のメンテナンスであることは、もっと重要視されてもよいのではないかとつとに思う。「公務員不要論」についても同様で、「公務員のしている仕事は無駄ではない」と返すよりは、一見してたくさんいすぎな正規の公務員がなぜいなくてはならないのかを主張するほうが得策なのだろう。