個室にて

Ars Cruenta

マスクと賭け

 最近、街中でマスクをしない人が前よりグッと多くなってきたような気がする。毎日マスクをするのはお金がかかるし、特に路上で煙草を吸うような人には口を閉じられるがごとき苦行なのかもしれない。

 マスクをしない理由の一つとして、マスクをすることで新鮮な空気が取り込めないとか、免疫力が下がるという主張をする人がいる。もしこれがひどく人間の心身に支障をきたすというのであれば、なるほど、マスクをしない理由にもなるのだろう。しかし、コロナ以前にも中度以上の花粉症でマスクを着け続けなくては生活もままならない人たちがいたのも事実である。この人たちは新鮮な空気を取り込めなかったり免疫力が下がったりで早死にするというデータはあるのだろうか。調べ方が悪いせいか、管見の限りそのような説得力のある話は聞いたことがない。

 世の中には一種の過敏症を持つ人のようにマスクを着けることに大きな困難のある人もいる。しかしもしマスクをすることがちょっと面倒なこと、程度のことであれば、パスカルの有名な賭けにのっとって次のように言うことができるのではないか。私たちはマスクを着けるか着けないか、それを日々の生活の中で強いられている。もし新型コロナウイルスというものが専門家の言うように本当に存在し、それがそれなりに危険だということも本当であるならば、マスクを着け続けて生活することは自分にとって、それどころか他人への配慮の観点できわめて大きな効果を生み出しうる。他方、新型コロナが嘘っぱちだとマスクを着けずに過ごしてそれが正しかったにせよ、得られるものは大してない。というのも、仮に専門家が陰謀論の中心地であり医者どもが小汚い売国奴だったとしても、自分が糖尿病や肺癌にかかった時に相手をしてくれるのはこうした医者なのであって、コロナ陰謀論をものする著作者たちではないであろうから。

 神の存在をめぐる賭けがそうであるのと違って、マスクの着用をめぐる賭けは自分の死後も含めた全生命を賭すものではない。しかしその賭けには自分や他人の健康と、社会の仕組みが作ったリスクや制裁(それが良いものか悪いものかはさておき)が賭されている。そうである以上、賭けに参加せざるを得ない人は半端な賭けをしてはいけないだろう。神を信じることを選ぶならば、神を信じたふりをしてはいけない。マスクもちゃんと着けなければ。