個室にて

Ars Cruenta

花と景色

 久々のブログ。先日、機会あって高知の牧野植物園を訪れた時のこと。私は昨年の夏ごろから著しく知覚の解像度が落ちて人の顔を見てパッとだれかすら分からないことも多くなっていたのだが、いろんな植物を見ていてふとあることに(改めて?)気づいた。

 植物園というのは、植物を展示している施設で、各種の植物には説明書きの付いた黒字に白のボードが掲載されている。こういうものを見ていると私はついつい一つ一つの植物をつぶさに見て(観察するほどではない)説明されている通りの植物かを確認していく。しかし花畑の美しい全景は私を個々の植物への注意から、景色としての植物へいざなうのだ。

 経験する事実として当たり前と言えば当たり前のことなのだが、それでは個々の植物への注意と個々の植物からなる景色への注意はどのように使い分けられるのだろうか。一方は区別されたものへの注意、他方は区別されるかもしれないものが混然一体となっている様子への注意である。この二つは一見して、相容れないように見える。景色を見ればそれぞれの植物はパーツにすぎなくなり、一つの植物を見ていると景色は後背に退いてしまうからだ。

 この答えの一方は、牧野植物園のひとつの(なかなかできない)特徴に求められるのではないか。この植物園でまず圧巻だったのは、珍しい植物があることでもそれがきれいな景色を構成していることでもない。度肝を抜かれたのは、どんな植物にも学名と通称名の書かれた札が付されていることであった。実はこの「札がついている」ことが大事なのではないか。門外漢の私のような人は、植物を景色として楽しみ、興味を持った植物を個別に見ている。ここに札は私の知らない、あるいは見ていない植物への注意を喚起し、そのキャプションと植物に向かわせるのである。

 この答えのもう一方は、山と谷からなる植物園の構造に求められるかもしれない。特に「こんこん山」を見上げる入館すぐの景色と、「50周年記念庭園」を見下ろす際の景色は、個々の花やキャプション以前に人々を景色に没入させる。景色のひとつの条件は遠くから見てひとつのできあがった景色だと思われることであり、この植物園はそれが各所でうまく構成されているような気がするのだ。

 高知市の中心部からはやや遠いが、行ってみて損はない。また行ってみたい植物園だった。