個室にて

Ars Cruenta

世界は形見であふれてる

 仕事をするとき、いつも着けている時計がある。正確な値段は分からないが私からするとすごく高価なCITIZENの時計で、恐らく見る目のある人が時々驚いた様子で「若いのにすごく良い時計を着けていますね」などと言ってくれる。ただ、この時計は私が着けるにはあまりにも大きすぎる。きっと腕時計をしたことのある人なら誰しも、私がその腕時計を着けていると怪訝に思うんじゃないかと思うくらい。時計のわっかから腕の直径を差し引いて、2cmくらいの隙間があくくらい、私には大きすぎる時計なのだ。そう、これはもともと私の時計ではない。お世話になっている人の旦那さんの形見として譲り受けたものなのである。

 実は、旦那さんと特別仲が良かったわけではない。面識はあったが挨拶をするくらいのもので、奥さんの方にいろいろと教わりに行っていたのだ。ただ、ものすごく大きな人だったのは何となく覚えている。大きな人だが朴訥としているというわけでもなく、気さくとまではいかないが、安らかに過ごしている感じだった。そんな旦那さんがある日突然急死した。正確な原因は恐らく最後までわからなかっただろうが、そんな人の時計をあるとき、「良い時計だからあなたが持っていきなさい」と渡されたのだった。

 実は冒頭に腕時計を着ける話をしていたが、最近、仕事中はポケットの中に入れてしまうことが多い。どうしても私にはぶかぶかで、激しく動くと腕をするすると時計がスライド移動してしまうのだ。ある日、親切心で知り合いが「時計を短くしてもらえばいい」と言ってくれたことがあった。ただ私はその時即座に、「これは形見の時計だから余り変にいじりたくない」と答えていたのだった。私にフィットさせるようにするのは確かに簡単なのだろうが、そうすると、あの大きな旦那さんの姿を忘れてしまうような気がしたのだろう。

 思えば、まだ御存命の方からでも、人からもらったものというのはたくさんある。友人からもらったプレゼントから亡き祖父の使っていた財布まで、そのひとつひとつにその人の思い出が何かしらの形で詰まっている。形見というとどうしても大切な死者の持ち物というイメージが強いけれど、それを見てその人を思い出すようなもの、くらいの軽い意味で捉えるならば、一つ一つの品物が持つインパクトに強弱こそあれど、世界は形見であふれていて、独りぼっちの時でも、ふとそうした品を見ることでどこか人の名残を感じられるのだと思う。

 とはいえ物はいずれ壊れたりすり減ったりする、というのも事実ではある。もう2年くらい前か、「もういい加減捨てなさい」とボロボロになった三つ折りの財布を捨てて、L字ファスナーの新しい財布を買った。別に特段仲が良かったわけではないものの、祖父から譲り受けた財布で、おじいちゃん子だったというより単にデザインが気に入ってボロボロまで使っていたものだ。今使っている財布とは似ても似つかない財布だったが、自分で買ったはずの財布を見ると本当に時々、あの財布のことを思い出す。物はなくなっても、形見の記憶は新しい財布に引き継がれているのかもしれない。