個室にて

Ars Cruenta

普段乗らない市バスに乗ることの可能性

 先日、所用でJR尼崎駅近辺に向かった際のこと。用事がうまく進まず徒労に終わってしまいバスで帰ろうとした時のことだ。私はふと目前にあった、帰りのバスではない出屋敷行きのバスが気になり飛び乗ってしまった。夕暮れどきで、すでに空には三日月が高く上がっていた。

 このバスは一旦南下して川を渡ると、今度は北上して十年少し前にできた医療センターを通過していく。それから西進して市役所を通ったかと思うとまた北上して七松のあたりを通り、保健所のあるJR立花に向かっていく。そしてそこからさらに西進して、ぐるっと労災病院を回ったかと思うと、西大島のあたりから国道二号線に出て、徐々に南下しながら阪神で屋敷へ向かっていくのである。土地勘のない人にもお分かりの通り、このバスはJR尼崎を出発して、ぐるりと北に向かって大きな円を描くかのようなルートを通って、直接行けば15分程度で着くであろう旅路を40分あまりかけて回り道しているのである。

 なぜこんなバスがあるのかというと、このバスが「阪神バス」でありながら、もともとは市バスであったという事情が大きくかかわっているだろう。そのためこの路線を含むいくつかの路線は「尼崎市内線」と位置付けられているのである。市バスならではの地元住民の利便を考えたルート設定が今も息づいており、このルートが、かえって日ごろそのバスに乗らない同郷人にとってはかなり新鮮に感じられる。まずは上に示したルートの新鮮さ。普通なら一直線に行ける場所をいくつもの場所を経由していくのが面白い。また、その途中には当然、自分が知らない道も多くあるわけで、車窓から月と街並みを眺めながら、本当に小さな旅をしているかのような気分にさせられる。

 ある土地に住む人は、それなりに出不精であってもその地域のいろいろの地名には知悉していることが多い。また、電車や普段使いのバス、車での移動といったお決まりのルートにこれらの地名を位置付けている。しかしこうした「乗ったことのない市バス」は、私に、その地域の地点と地点をつなぐ新しいやり方とその風景を見せてくれる。きっとこのような市バスの用い方は、赤の他人となるほかの地域の市バスではできないことだろう。市バスは地元民にとってこそ、はとバスとなりうるのではないか。そんなことを思わされたものの、結局疲れ果てていたためか、終点の出屋敷はすぐそこだというのに、その手前で降りてしまった。