個室にて

Ars Cruenta

技術を教える

 子供のころ、ずっと体育の授業が嫌いだった。たとえば「試合形式」の名のもとにクラブ活動でバスケットをしている連中と戦ってもまず勝ち目はない。そもそも基本の立ち回りやボールさばきを教えてもらっていないのに、上手にドリブルなどできるはずがない。3対3のミニ試合のとき、相手が気が合う人たちだったらいつも、「フリースロー対決にしよう」と持ち掛けて、勝手にルール変更していた気がする。

 今でも、体育教育で体の動かし方を教えてくれないと嘆く声はしばしば聞かれる。そして実際、そうなんだろう。高校生のころ私は、もういっそ試合なんてやめてしまって、身体の伸縮性や瞬発力を高めるための体操やトレーニングだけやっていたらいいんじゃないかと本気で思っていた。しかしそれさえも、ひとりひとりの体の動かし方を見て適切な指導をするには長い時間と教員の能力が必要となるだろう。

 体育だけこんなにあれやこれやと言われるのは、試合には勝ち負けがあり、適切な体の動かし方も教えてもらっていないのにどうせ勝てない相手とやり合って負けることへの怒りが込められているような気がする。しかしそれとは別に、もう一つ理由があるような気がする――体育以外の教科では、(少なくとも生徒の側、教員の側のどちらかで)技術指導は暗に道具の使い方と同一視されており、何かしらのものが形として出来上がってしまうのではないだろうか。体育以外の科目でも、技術を教わるという経験は稀有なものではなかったか?

 たとえばどれほどリコーダーが下手でも指の押さえ方は教えてもらえる(指さばきは教えてくれないのだが)。どれだけ素っ頓狂な音が出てもそれにしたがって指を押さえていけば、その人の音楽が出来上がってしまう。美術だって、絵画の道具の使い方は教えてくれるがどうすれば上手に色を塗れるかは教えてもらえない。でもキャンバスを与えられてそこに何かを描けば、それはもうその人の作品ということになってしまう。国語の読書感想文だって、話は同じことだ。

 そう考えると改めて、技術を教えることのむつかしさを思い知らされる。一人一人の学生にどう色を使いこなすか、どうすればいい文章になるかを教えるのには時間がかかる。思えばエントリーシートや受験の小論文を見るだけで仕事になる人がいるのだから、国語教育の一環でしかない読書感想文にそれだけのフィードバックを用意できる人なんてほとんどいないだろう。「才能がない人はない」で済ませるか、「練習すれば自分で工夫して改善できるのだ」で済ませるか。その間で何ができるかが問題なのだろう。