個室にて

Ars Cruenta

宝飾品を身に着けるということ

 まだ小学生くらいのころだったか、とある水族館で500円もしない、貝を加工した指輪が売られていた。当時の私はその指輪が欲しくてたまらなくなり、いろいろ駄々をこねて買ってもらった。子供の管理能力のなさゆえか結局その指輪はなくなってしまうことになるのだが、何年もの間、ずっとことあるごとに着けて出て行っていた。当時は結婚指輪などの特殊な意味合いを持った指輪なんて全く意識していなかったから、右か左の薬指にはめていた記憶がある。

 この指輪がきっかけだったか、金もないのに宝飾品に興味を持つようになった。別に宝石だけがアクセサリーではない。トンボ玉のネックレスを手作りしたり、長野県の諏訪ガラスの里では「青のアマルフィ」という名前だったと思うが、ガラス工芸家のネックレス作品を買ってしばしば今も身に着けている。トンボ玉やガラスに比べたら宝石は高価で、地元の何でもない商店街の宝石店で「ガーネットの付いたチョーカーはないか」などと尋ねていったのは今思えば蛮勇に過ぎなかったと思う。もっとも、その店にガーネットをあしらったチョーカーなどなかったのだが、こちらは何も用途を言っていないのに「恋人への贈り物ですか」と恋人のいない自分に言われたことはよく覚えている。

 アクセサリーを身に着ける意義はいろいろあるだろうけど、私の場合は着飾りたいというよりも、RPGの装備品のように、具体的に自分を強くしてくれるもののような気がする。たとえば先述の「青のアマルフィ」は気持ちを落ち着けたいときに、軽く握ったりして使ってきた。指輪は、身に着けると拳が強くなるような気持になる(誰かを殴るわけではなく、なんとなく覇気を得ると言ったほうがいいのかしらん)。もちろん一目見たときの美的センスでも選ぶのだが、それを身に着けた時に自分がそういう効果を得られるかが選ぶ際にも重要になってくる。

 しかし逆に、人間には着飾ったものを取り外して丸腰にならないといけないときがある。先日、とある重要な発表をする際に、普段は身に着けないようなマフラーや手袋をしていった。いろいろ自分の気持ちに整理をつけて大仕事をするつもりだったのだが、会場に着いてみてふと気づいた。自分が大仕事をするときにはマフラーも手袋も、そして上着も順番に脱いでいかないといけない。アクセサリーも(肉まで)すべてを脱がないといけないのは最期の最期かもしれないが、丸腰のままでも正気でいられるようにしないと、宝飾品も浮かばれないなと、ふと思ったのだった。