個室にて

Ars Cruenta

古典文法の思い出

 小中学生のころ、苦手な科目はいろいろあったが、特に国語の文法は全くよく分かっていなかった。形容詞が名詞にくっつくとか、その程度はまだいいとして、助詞や助動詞となると、そもそも何でこんなことをやらなきゃいけないのかとか、この用法とこの用法は何が違うんだと頭がこんがらがってしまい、中学生の頃の現代文法のテストでは学年最下位の得点をたたき出すなど、散々なことになっていた。

 文法がダメとなると当然それはほかの文法にも影響するわけで、一から学ぶ英語はまだそこまでひどくはなかったはずだが、古典文法の活用で再びすっかり心が折れてしまった。現代文法と違って文法ができなければそもそも何を書いているかもわからないわけだから、また結構ひどい点数をたたき出すことになってしまった。どん底の落ちこぼれとまではいかずとも、一時は宿題の提出などもしなくなり、このままだと三者面談にもなりかねない状況だった。

 そんなとき、確か中2の後半か中3の前半のころ、テスト前にふと文法書の動詞・助動詞の活用一覧表を見たとき、「これを覚えれば何とかなるんじゃないか」と思った。今から思えばそりゃそうなのだが、当時はその思い付きが天啓のように感じられ、私は割かし真面目にこの表を覚えていった。すると、これまで何をやっているのかもよく分からなかった文法の解説が急に分かるようになってきた。ああなんだそんなことだったのか、と妙に納得したのをよく覚えている。それから、古典文法の授業では教科書のテクストをノートに書き写し、授業でやった文法事項を逐一書き写したテクストの横に書くようになっていった。自然と成績も上がり、何とか三者面談は免れたというわけである。

 別にこの話を自慢話として供したいわけではない。ただ、このエピソードにはふたつ、教育上重要な観点が含まれているような気がしなくもない。第一に、分かっていない子供というのはしばしば、そもそも何をしなくてはならないかを分かっていない。動詞の活用がわからずに文法の問題など解けるはずがないのに、そもそも自分はそれを覚えないといけないという発想自体が欠けていた。よく「分かっていない人は何が分かっていないのかさえ分かっていない」とはいったもので、「あ、そもそもこれ覚えるものなんだ」という気付きがなくては、きっと自分はそのまま落ちこぼれていただろう。

 第二に、それではそんな子供相手に何が有効かだが、分かってなくても覚えさせるというのはやっぱりかなり有効な手はずなのではないか。詰め込み教育だとか、理解なき暗記だとか、こういうやり方はいろいろの批判にあってきただろうが、そもそも覚えないと始まらないのなら、分かってなくとも覚えさせてしまえばいい。一覧表を覚えた後、個別に表の意味を覚えていけばいいのではないか。呪文を覚えさせるように小学生に難しい詩や般若心経を覚えさせるのも、結局そこで培った音やリズムがのちに役立つからなのではないだろうか。そんなことを思わせる思い出であった。