個室にて

Ars Cruenta

「野良猫」のいない風景

 先日、「坂上どうぶつ王国」という番組を見ていると、名古屋で保護猫活動をしている人の特集が組まれていた。その人は、かわいそうな猫がいなくなるよう活動しているようだが、その街を世界初の野良猫のいない町にしたいという野望を持っているようだった。この「世界初」に少し違和感を覚えたわけである。というのも、私がかつて半月ほどイギリスを旅してまわった際、岩合光昭さんの「ネコ歩き」のように野良猫と仲良くなれないものかとあちこちを歩き回ったものだが、北はスコットランドアバディーンから南のロンドンまで、野良猫らしき猫をほとんどと言っていいほど見なかったからである。

 これと合うデータとして、東京大学の先生が書かれたエッセイがある。これによると、日本と違ってイギリスやドイツでは「かわいそうだからイエネコにしてやろう」という道徳的配慮から野良猫たちはいなくなったことになっている。

www.u-tokyo.ac.jp

 しかしこれに対し、かなり攻撃的に反応している人もいる。イギリスにはたくさんの野良猫がいるというデータがある、という主張だ。ただ、ノネコはさておき、そもそもどうやって「野良猫」の数を数えているのかという問題もある。BBCの猫特集では、猫にGPSをつけて、飼い主の元を離れた猫がかなり広範な範囲をなわばりとしている様子を描いている。首輪がついていなければ野良猫だとでも言わない限り、この推計には多くの「実質イエネコ」が含まれている可能性はあるのかもしれない。とはいえ、野良猫が全くいないというのも奇妙な話で、このブログの動画にあるように実際に活動している団体がある以上、野良猫が絶滅しているというのは言いすぎなのだろう。

eggmeg.blog.fc2.com

 野良猫がいるのかいないのか、いるとしたらそれはどのように定義づけられ、どんな所にいるのかという問題は少し置いておいて、人間の目から「野良猫を感じるか」という視点で問題を捉えてみてはどうだろうか。日本の都市部では、排水溝や公園や道端に猫がいる。もしかすると埠頭の片隅や廃ビルの地下にも野良猫はいるのかもしれないが、彼らは生活者の知覚の対象とならず、したがって「猫がいる」と思わせられる存在ではない。世の中にたくさんホームレスで厳しい生活を強いられる人がいても、夜中の公園や炊き出しの現場を見ないとその多さに気づけないのと同じである。日ごろ使う道、初めての場所でもだいたい一定数の人間が動く範囲にどこのだれか分からない猫がいる。それが私たちの感じる「野良猫」なのではないだろうか。

 そう考えると、仮に打ち捨てられた土地にノネコのコロニーがあったり、都市の隠れた場所にひっそりと猫がいたとしても、それは私たちに野良猫を感じさせる猫ではないことになる。ここで、ひどい批判を受けている大学教授が、道徳的配慮ゆえに野良猫がいなくなったと主張していたことを思い出したい。道徳的配慮が働くのは多くの場合、対象を眼前において「かわいそうだ」と思う際に働く。目に見えない野良猫たちがいたとして、抽象的にその猫は道徳的配慮の対象になるだろうが、実際にその知られざる猫を助けようと思えば、そこには旅人や寄寓者の視点ではなく、専門家の――野良猫の数の推計を採ろうとし、目に見えないかわいそうな猫をわざわざ探そうとする全く異なる視点が導入されなくてはならなくなる。我が国の場合、こうした視点は多くの場合、「保護猫活動」という形で関係者の友人や猫の引き取り手など一部の一般の人々に可視化される。

 ただしこの専門家の視点は道徳的配慮のためだけに必要だというのではない。専門家のなかには、ほかの生き物を守るために猫を絶滅させるべきではないかという主張もあるのだから。