個室にて

Ars Cruenta

根っこからのつながり

 たまに「龍が如く7」の最終章を見返している。主人公の春日は幼少のころから相手していたマサトと、今度はどん底のヤクザと東京都知事という関係性で出会う。都知事となったマサトは裏で様々な画策をして春日の周りの人間にひどい仕打ちをするわけだが、春日は暴走するマサトに怒りを覚えつつ最後までマサトを殺そうとはしなかった。むしろ彼を説得して、再び同じどん底からやり直す気でいたのだ。ところがこの東京都知事は最後、春日の意図に多少なりとも共感した刹那、おそらくは捨て駒にすぎなかったであろう久米に刺殺されてしまう。この久米は「ブリーチジャパン」として世の中からグレーゾーンをなくすというマサトの考えに深く共感していたものの、そのマサトが極道の近親者というグレーゾーンだったことを知り、最後は真っ黒な最後を飾ることになるのだ。

 作中にはそれとして明示されないが、ここには二つの、重要な「根っこからのつながり」が描かれている。一方で春日とマサトは幼少期からの付き合いで、いまさら関係をなかったことにできるような間柄ではないと春日は言う。他方、そのマサトを刺した久米は作中でいかにも小物のように扱われるが、殺したいほど信じていたということは、マサトの理念を根っこから信じていたということもできるかもしれない。この二人は全く別の意味で、マサトと根っこから繋がっていたわけだ。

 春日と久米の違いは、一見すると一目瞭然に見える。たとえば、春日の情熱は本物に見えるのに、久米のそれは衝動的に見える。けれども、そんな明らかなことをこの作品のフィナーレとしていいのだろうかという気もする。人々があのシーンを見て直感するのは、もっと当たり前だけど案外言葉にしにくい違い、つまり経験してきたことと思弁上の違いのような気がするのだ。

 春日の柔軟性は、多くの人間を捨て駒にしながらもマサトを殺さなかったことにある。多くの戦いの末に彼はやはりマサトとやり直そうとした。これに対し、議員選挙の重要候補でありつつも一候補にすぎない久米は、マサトではなくその理念に共感したためにあっさりマサトを刺してしまう。この対比はマサトの言う「家族愛」の重要視ではなく、経験的な積み重ねと思弁的な理想の追求の対比であるように見えるのだ。

 実際のところ現実の世の中で春日のように男を張れる人はなかなかいない。ただ、「どのように行動するか」という次元でも、経験主義者と思弁主義者は案外このような形で立ち現れるのかもしれない。経験を重視する身としては、もちろん春日の肩を持っているわけだが。