昔からずっと不思議に思っていることがある。「目を見る」という言い回しが日本語にはあって、「ちゃんと人の目を見て話しなさい」などと言ったりする。しかし人間には目が二つある。この二つの目で人間は視覚を得ているわけだけど、右眼と左眼はそれぞれ単独に動いているわけではない。右眼と左眼でどこか一点を見ようとして、右眼と左眼で得た画像データを脳で統合して、一つの映像を作り上げている。しかし、右眼と左眼が「一つの点」を見ているとするならばおかしなことになる。なぜなら、「目を見て」話している相手にも右眼と左眼があるのであり、両目は相手との距離が近いほど主観的には離れて見えるはずだ。そうすると、私たちが「目を見て」話しているときは相手の右眼を見ているのか、それとも左眼を見ているのか・・・。いざ相手と話をして「目を見て」いるときにはそんなこと一切思わないからデータが集まらないし、人に上のようなことを聞くと、キョトンとした表情をされることの方が多い。
しかし、これだけ「目を見る」という言い回しが人口に膾炙しておきながら、上の問いがキョトンとした表情で受け止められるということは、みんな「相手の目を見ている」という実感がそれなりにあるのではないかと思う。そのような実感がなければ、「言われてみれば確かに」となりそうなもの。心理学などで実験はされているのかもしれないが、ときどき鎌首をもたげてくる程度の疑問というものはなかなか調べられていない。
ただなんとなく今日、この問題への答えが今の自分の生活態度に結び付いているのではないかという気がハタとした。私は訳あって、普段あまり人の顔自体を見ない。見ないというか、人の顔をあまり上手に識別できないのだ。昔はそうでもなかったはずなのだが、この数年の間にいわゆる「相貌失認」ではないであろうものの、ごく一部の人以外の人の顔があまり分からなくなった。「人の目を見て話す」という言い回しがある一方で、世間には「あの人はちゃんと目を見て話さないよね」といった言い回しがある。私のように目を見て話さない人は、別にその人の鼻や口に注目しているわけではない。そもそもその人に注目していないのだ。そしてそのような態度をとられることにあいては不機嫌な気持ちになる。
つまり「目を見て話す」というのは、実はその欠如態である「目を見て話さない」の不快感からきたのではないだろうか。どちらの目を見ているかなんてどうでもよく、何なら目を見ているかさえどうでもよい。目が話相手の顔にフォーカスを当てるように向いており、それ故に目を向けたら目が此方を向いているように見える、それが大事なのではないかとふと思い至ったのだ。
なんとなく良い仮説を見つけた気分で職場から帰っていると、それはそれで少し怖くなってしまった。それでは恋人同士のように、「見つめ合う」とはどういうことなのだろう。たとえば私が好きな人と見つめ合っているとき、お互いは「顔にフォーカスが当たるように視線が動いている」程度の意味でこう言っているのだろうか。何だかそれはそれで、少し寂しいというか、哀しい気持ちになってしまう。やはり私たちはどこかで「目が合っている」という実感が欲しいのかもしれない。