個室にて

Ars Cruenta

分相応な生活

 ときどき思うのだが、我が家は食べることが好きすぎて、分不相応といってもいいほど贅沢をしている。もちろん、「贅沢」といっても、百貨店で高い肉をバンバン買うわけではなく、美味しいものを安く手に入れるために様々な涙ぐましい努力をしている。野菜は農家さんにまとめて送ってもらうことで新鮮なものを安く手に入れ、美味しい魚がたらふく食べたくなったら水産会社に刺身やお鍋の具を送ってもらう。その代わりに冷凍食品など家族の人数分お金がかかる食べ物は基本使わず、外食もなるべく控えるし、めったに飲みにもいかない、といったところか。

 ただほかのところでは、やはり何事も分相応にしようと心掛けている。昔はタウンシューズや宝石にも興味があったが、服はユニクロや安めのシャツで十分だし、靴も仕事場でつかえるスニーカーを履きつぶしている。誕生月の宝石がガーネットなのでずっとガーネットに憧れていたのだが、自分には2,000円くらいで買った革のブレスレットのほうがちょうどよくなじんでいる。

 たまに百貨店に出かけると、食べ物が好きということもあってグラスや皿を見に行く。使い古したズボンにこれまた多少色褪せてきたYシャツという姿は、華美に着飾った人の群れのなかでは少し浮くのかもしれない(清潔にはしているつもりなのだが)。たまにスタッフが不審な目でこちらを見ることもあるのだが、あまり気にせずいろいろ物色している。

 ほしいものはたくさんあるが、どこか心のなかでブレーキがかかる。買い物をしたいという欲望よりも、「今これを買うべきなのか」という問いかけが思考を覆うのだ。たとえばそこから「マグカップもう一つあって使うのか」と考えていくと、たいてい今ある物を大事に使うという発想にたどり着く。気分によって装飾品やカップを選ぶのはひとつのゆとりだが、そのようなゆとりを演出するにはまだ何かが自分に足りない、そんな気がする。

 こんなことを言い出すと結局買わないなら行かないでいいじゃないかと思うときも無きにしも非ずだが、良いものを知っておくことと、自分を良いもので取り囲むことは別のことで、今の自分には前者は必要なのだと思う。バカラのグラスで何かを飲む日は来ないかもしれないが、それでもバカラのグラスを窓越しに眺めることには、嗜好を錆びつかせないために必要なことなのだと思っている。