個室にて

Ars Cruenta

知覚の解像度

 昔は「目を見れば人のことがわかる」と思っていた節があるものの、この数年で、すっかり人の目を見るのが怖くなった。理由の一つは例のコロナで、コロナの影響で人々の目つきが変わったというのがある。もう一つの理由は昨年の夏にちょっといろいろあって、それが決定打となって私の目はしばしば知覚レベルでは人を特定のだれかとして認識しないようになってしまった。昔、メルロ・ポンティの話を聞いたときに失語症の女の事例を聞かされたが、私の身体もそんな具合に、この場合は知覚の解像度を一気に下げてしまったというわけである。

 パッと見て誰かとわかるということが知覚だというならば、今の状態では、私は推論によって人が誰かを見分けているということになる。実際に、この人がこういう反応をしていて、こんな顔立ちをしていて・・・ということから「この人は~さんに違いない」と判断するケースがこの一年でぐっと増えた。よく聞く相貌失認ともまた少し違う、奇妙な判断がここにはある。なるべく失礼のないように振舞ってはいるつもりなのだが、相手からすれば「この日と私のことちゃんと分ってるのか?」と訝しむこともあるのかもしれない。

 知覚の解像度が下がると、周りにも注意が向きにくくなる。このままではいけないと思い、最近はなるべく相手の目を見て話をするようにしたり、街の片隅に咲いている花を見たりするようにしている。自分を世界とつなぎとめるために。